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【歴史部】<札幌市>石山通をひたすら南へ歩くと何があるのでしょうか!

意外な場所に気になるスポットたちが!

 

こんにちは、えぞまち歴史部です。
特に目的もなく、住宅街を歩き回ってみるというのもときには楽しいものです。
何もない場所と思っていても、実は隠れた史跡や碑があったりします。
今回えぞまちでは、たまたま用事があって出かけていた中央図書館から、石山通をひたすら南へ下ってみるという、特に目的のない散歩をしてみました。

 

今回歩いた散歩ルートは、
石山通駅から、まっすぐ石山通を南に進み、豊平川を渡って渡船場跡へ、そのあと豊平川沿いを北上して馬の渡し渡船場跡へ、藻岩橋を渡って石山通へ戻りました。

 

総工程6kmの散歩でした!

 

 

歩いていると、いろいろなスポットを見つけることができました!

 

第一のスポット「藻岩犠牲者の碑」

 

 

まず最初にたどり着いたのは、「藻岩犠牲者の碑」です。
南警察署からもう少し進んだところにある、「山鼻川橋」のところに、小さな広場のようになっている場所があり、鉄塔の近くに像が立っているのを見つけて立ち寄りました。

 

 

 

 

この碑はなんの碑かというと、北電藻岩発電所と、札幌市藻岩浄水場の建設工事の際の犠牲者を悼んで建てられた碑のようです。
発電所・浄水場の建設工事は1934年に着工され、1936年に発電所、1937年に浄水場が完成したとのことです。

発電所や浄水場といった大規模な施設の建設は大きな工事で、経済的にも、また当時の市民にも大切なインフラの整備となったはずです。しかしこの碑の中で気になったのは、以下の文言でした。

”発電所では、タコ部屋、信用部屋、「通い」の労働者等およそ四千名が従事”
”これら労働者の多くは、全国各地で生活に窮していた日本人であり、日本の植民地支配によって遥か異郷の地に渡って来ざるを得なかった朝鮮人でした。”
”周旋屋に騙されてタコ部屋に売られ、過酷な労働を強いられた人々が数多くいました。”

周旋屋というのは、いわゆる「職業斡旋業者」や「仲介業者」といった意味ですね。ちょっと違いますが、現代で言うところの人材派遣会社に近い概念といえるかもしれません。

周旋屋・会社に騙されて過酷な労働に従事させられる…というのは、まぁ現代の職業でもないことはないと思うのですが、それより、似たようなエピソードとして私は、小林多喜二の小説「蟹工船」の話を思い出しました。

蟹工船はもともとプロレタリア文学のお手本のような、ちょっと思想が強い作品ではあるのですが、大資本を持つ巨大企業が大規模な工事を受注して、下請けに人員確保を丸投げし、末端で働く労働者は周旋屋によって集められた貧困層の日雇い労働者で…という構図は、現代でも通じるところがあるかもしれません。

 

 

政治思想はともかくとして、こうした犠牲者を悼む碑があることで、私たちが日々利用しているインフラは、顔も見たことがない「誰か」の犠牲の上に成り立っていることを実感させられますね。

 

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第二のスポット「殉職者之碑」

 

 

こちらも第一のスポット「藻岩犠牲者の碑」と関連するといえるかもしれません。
この「殉職者之碑」は、南32条西11丁目、上山鼻神社の近くにぽつんと存在している碑です。

 

 

 

 

 

碑そのものには特に説明文などはありませんでしたが、後に調べてみると、北海道電力株式会社の殉職者慰霊碑として建立されたものであることがわかりました。


電力という大きなエネルギーを扱う事業を行う会社においては、やはり様々な場面で「殉職」が発生してしまうものなのでしょう。

改めて電気を日常生活で利用するというのは、本来は並大抵のことではないのだなという思いに至りました。

 

第三のスポット「渡船場跡」

 

 

さて、先の「殉職者之碑」からさらに南へ進み、豊平川にかかる「藻岩上の橋」のたもとにある「渡船場跡」です。

 

 

 

この場所は、パネルの説明によると昭和9年(1934年)までは渡船場があった場所だということですね。

ここより北にある「藻岩橋」には、このあと紹介する「馬の渡し渡船場」があったのですが、その「馬の渡し渡船場」が洪水で使用不能となった際にこの場所に渡船場が建設されたということですね。

実はここを歩いていたときに改めて感じたのが「橋」の重要性です。
このあたりで、真駒内側と藻岩側とが完全に豊平川で隔てられているのですが、先に触れた「藻岩橋」が、車がどんどん通る大きめの橋です。(真駒内通)それ以外の場所では、この「藻岩上の橋」だけが、豊平川を渡ることができる橋となっているのです。つまり…対岸に行けない!ということですね。

豊平川を渡るための労苦は昔の札幌の人々共通の悩みでした。川があることで人もモノも運ぶのが大変だったわけですね。架橋しては流され、また架橋して…ということが繰り返されてきたことでしょう。架橋技術が未発達だったり、素材の調達が難しかった時代には、橋をかけるより簡便に川を渡る手段といえば、やはり船しかなかったのでしょうね。

 

 <現在は公園になっています!!



第四のスポット「馬の渡し渡船場」

 

先の「渡船場」から少し北に行くと、「藻岩上の橋」より橋幅の広い「藻岩橋」があります。そのたもとにあるのが「馬の渡し渡船場跡」です。

 

 

 

この場所は、大正初期まで「馬を渡す」目的の渡船場が置かれていたとのことです。石山~藻岩(山鼻)~真駒内までのルートにおける豊平川を渡るための渡場だったようです。

石山では軟石(札幌軟石)が採取されていましたし、真駒内では「種畜場(牧牛場)」が開かれていたことから、モノを運ぶために馬が必須だったわけですね。これも大切な真駒内のルーツですね。

 

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第五のスポット「みゆき通り」

 

さて、「藻岩橋」を渡って、また真駒内側から藻岩側に戻ります。

 

 

戻る途中では、北海道の住宅街には珍しい「地下歩道」がありました。
城下町として栄えた本州の街中には地下歩道があるところも多いのですが…。

 

 

この「地下歩道」を通って、もとのルートに戻ろうとすると、「南35条みゆき公園」にたどり着きました。

 


そして、その公園近くの「街灯」に、気になる表示が…!

 

 

みゆき通り」とあります。一瞬「みゆき」は人の名前かな?と思ってスルーしてしまいそうになったのですが、いや、違う!と思い、カメラを向けました。

 

 

その理由は、「南35条みゆき公園」にある「明治大帝御巡幸之碑」を発見したからです。なるほど、「みゆき通り」=「御幸(御巡幸)」のことか!と気づきました。

 

 

この碑がある公園は、明治14年当時、開発が始まったばかりだった北海道を明治天皇が視察され、この公園近くで休憩をされたというエピソードがあるようです。御巡幸で通られたために「みゆき通り」だったのですね。

 

明治14年、明治天皇の北海道行幸と、明治44年、大正天皇の行啓については、えぞまちで過去に取り上げた「豊平館」の記事でも触れています!

 

www.ezomachi.com

 

おわりに

 

今回の散歩は、特に目的があって歩いていたわけではないのですが、歩き回っているだけでも興味深いものがたくさん見つかりますね。

思いがけず記事のボリュームも普段の倍ほどのテキスト量になってしまいましたが、こうした散歩はやはり辞められないな、と感じた経験でした。

 

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