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【歴史部】<平取町>北海道に残る「義経伝説」義経神社を訪れました!

 

こんにちは、えぞまち歴史部です。


学校の歴史の授業で、平安時代の「源平合戦」が記憶に残っている方も多いのではないでしょうか。


平清盛、源頼朝、弁慶…あるいは、国語の授業で登場する「平家物語」とか那須与一の「扇の的」も記憶に残りやすいエピソードかもしれませんね。

 

源氏方では、やっぱり「九郎判官」こと「源義経」が高い人気を誇っています。

 

今回は、北海道に源義経の伝説が残る、平取町「義経神社」にお邪魔してきました。伝説や歴史上のロマンを感じるスポットとして、お楽しみいただければ幸いです!

 

※本来は「義經神社」と表記するのが正しいようですが、記事中では便宜的に「義経神社」と表記させていただいております。

 

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おさらい!源義経とは?

 

 

源義経は源平合戦(治承・寿永の乱)で兄・頼朝に従って戦い、一ノ谷・屋島・壇ノ浦の戦いなどで武名を挙げた人物です。

 

これらの活躍によって、源平合戦を通して源氏方にとっては紛れもない大功労者だったのですが、頼朝の許可なく官位を受けたことや、戦場での独断専行を咎められ、頼朝とは対立してしまいます。

 

そのぐらいのことで…?と思う感覚もあると思いますが、頼朝は平家追討後の統治を平穏なものとするためにいろいろと策をめぐらせていました。

 

というのも、頼朝はこのときまだ、勝手に官位を授けることができない地位にいました。この状態で先に義経が官位を受けてしまえば、合戦後の頼朝による統治の正当性が揺るがされてしまうのです。

 

(もちろん、頼朝が義経に軍監として付けた梶原景時の言うことを全然聞かなかったり、壇ノ浦で安徳天皇・二位尼を自害に追い込んだことなども理由としてあるでしょうが…)

 

このような理由で頼朝との対立を引き起こしてしまった義経は京都に居られなくなり、追手の網をかいくぐりながら伊勢・美濃を経て藤原氏を頼り、奥州(現在の青森・岩手・宮城・秋田・福島・山形)へと向かいます。

 

奥州藤原氏の当主であった藤原秀衡は、落ち延びてきた義経を将軍に取り立てて、頼朝の勢力が奥州に拡大してくることを防ごうとしました。

 

しかし、文治3年に秀衡が病没、後を継いだ藤原泰衡は頼朝からの繰り返しの圧力を受けて、とうとう義経・弁慶を含むその従者を襲撃し、従者らを討ち取りました。(衣川の戦い)

 

館を包囲された義経は持仏堂に籠り、家族を殺害した後、自害したと伝えられています。

 

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「義経伝説」とはどのようなもの?

 

さて、衣川の戦いで奥州藤原氏の兵に包囲され自害したとされる義経なのですが、後年になって義経に対する同情・共感から、数々の創作物(義経物)が作られました。歌舞伎や能でも義経・弁慶を描いたものは大人気となりました。(判官贔屓)

 

そうした共感の一種でしょうか。義経は衣川で死んだのではなく、そこからさらに北に逃げたのだという「不死伝説」があります。

 

このように表現すると、「なんだ、都市伝説みたいなものじゃないか」と思われてしまいそうなのですが、実はこの義経不死伝説の原型は歴史が古く、室町時代の御伽草子の一部にあると言われています。

 

これによると、当時「渡島(おしま、ではなく、当時はわたりしま)」と呼ばれていた蝦夷地…つまり北海道に義経がたどり着き、不思議な体験をする…という話なのですが、ここからさらに義経は蝦夷地にわたり、アイヌの指導者となったのだ、という説となったのです。

 

また、その伝説のひとつに、生き延びた義経がピラトゥル(平取)にたどり着き、アイヌの人々と互いの文化を共有したのだ、というものがあります。

 

今回訪れた平取町の「義経神社」は、この伝説に基づき、なんと寛政3年(1791年 ※または1798年という説も)に創建されたもの。単に都市伝説と片付ける気にはなれない歴史ですね。

 

ちなみに、義経が蝦夷地にわたり、さらにそこから大陸へとわたって、「成吉思汗(チンギス・ハーン)」となったという伝説もあります。

 

こちらは残念ながら(?)研究者の方々によって、学術的には完膚なきまでに否定されましたが、伝説としては面白いですよね。

 

この義経=チンギス・ハーン説が劇中の設定で採用されているのが、たかぎ七彦氏作の「アンゴルモア元寇合戦記」という漫画作品です。

 

描写はなかなかエグみがあるのですが、元寇をテーマとした面白い作品です!

 

このように、現代でも義経伝説がいろいろな人に刺さる「ロマン」を持っていることがわかりますね。

 

平取町 義経神社とは?

 

さて、前置きが長くなってしまいましたが、こちらが平取町の「義経神社」です。

源九郎判官義経を祭神としています。

 

 

義経神社は、この階段を登った先にあります。

 

 

<登ってみると、なかなかの高さがありますね…!

 

 

義経神社には「義経神社の栗記念保護樹木」があります。この栗の木は、源義経が平取の地に居を構えた際に植えられたものという言い伝えがあるのだそう。

 

 

立派な栗の木です!

 

 

義経神社の成り立ちについても、大きなパネルとして展示されています。

 

ここでは「ハンガンカムイ」(判官カムイ?)と表記されていますが、義経伝説で北海道にわたった義経は、アイヌの人文神である「オキクルミ」であり、弁慶は「サマイクル」である、という説が唱えられ、アイヌへの人々への教育政策に利用されたとする逸話があるそうです。ここでは「オキクルミ」の名は使われていませんね。

 

オキクルミは、知里幸恵氏の「アイヌ神謡集」では「オキキリムイ」とされ、広い地域でその伝説が残るようですが、オキクルミ自体の出自や由来については、地域や話者によって(口承のため)伝説に違いがあるようです。(カムイの出自、というのも無茶な話かもしれませんが…。)

 

こうした伝説のひとつが義経伝説と結び付けられたと考えると、いろいろな想像ができて興味深いですね。

 

ちなみに、平取町に眠る様々な伝説については、えぞまちYoutubeチャンネルにて動画でもご紹介しております!

 

UFO基地の廃墟?!正体不明の巨大人形の謎に迫る!【平取町】 -EZOMACHI えぞまち-

 

 

本殿の脇には、「必勝開運祈願」の「御神馬の絵馬」がありました。

 

 

「常盤御前」「静御前」、こちらも、義経と関わりの深いエピソードですね。

 

 

こちらは沙流川の「さざれ石」!迫力がありますね。

 

敷地内には「義経資料館」もあり!

 

 

義経神社の敷地内には、「義経資料館」もあります。
ここも一緒にご紹介しようと思ったのですが、展示が豊富ですので、別の記事で改めてご紹介したいと思います!

 

【おわりに】

 

<北海道の地に残る「義経伝説」を深く知り、そのロマンに触れられる素晴らしい神社でした!

 

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【施設情報】

 



◯施設名:義經神社
◯住 所:〒055-0107 北海道沙流郡平取町本町119−1
◯URL  :https://yoshitsune-jinja.com/website/
◯地 図:

 

 

 

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