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【歴史部】<夕張郡長沼町>「幻の巨大水路構想」!? 千歳川にある「学生義勇軍流汗の跡」はなんの碑?

こんにちは、えぞまち歴史部です。

北海道は本州と比べると歴史施設や史跡が少ないのでは?と思われがちですが、注意深く見ていくと、こんなところにも!というところに歴史を感じるモニュメントや史跡があったりします。

今回は、えぞまち歴史部が出会った長沼町の千歳川にある「学生義勇軍流汗の跡」というもの。(※写真は冬期に撮影)

なんだか厳しい名前ですが、いったいなんの碑だったのでしょうか。

 

日本海と太平洋までを巨大水路で繋ぐ!?「幻の巨大水路構想」

 

 

「学生義勇軍流汗の跡」があるのは、長沼町東8線の千歳川流域です。

ここは地図で見ますと、もともとの千歳川から分岐しており、分岐した小さな川が「大学排水」と呼ばれる水路になっています。

 

この「大学排水」と呼ばれる部分が、人の手によって作られた水路です。

川に手を加えようという工事に至った理由のひとつには、地元の農民たちの悩みの種、水害がありました。

当時のこの地域は「長都沼(おさつぬま)」という沼があり、周辺は低地だったのだそう。

そうすると、大雨で水害が起こりやすく、田畑へ被害が出ていたというわけです。

そのため、沼の余剰な水を千歳川へ排出する水路を造成して水害を避けたいというのが農民側の希望がありました。

 

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治水事業の経緯が刻まれています

さらに、ここでいきなりスケールの大きな話になります。

昭和16年当時の北海道庁長官、戸塚九一郎という方には、ある構想がありました。

それは日本海の石狩川河口と太平洋の勇払川河口を繋ぐ”巨大水路”をつくるという壮大なものでした。

改めて地図を見てみると、千歳川は支笏湖・樽前火山群が水源で、千歳市街~嶮淵川~漁川~石狩川という流れを持つ川です。

そして石狩川は石狩湾で日本海に注ぐので、ざっくり言うと「千歳川は太平洋に近い場所に水源があるのに、日本海側へ向かって流れている」川だと考えるとイメージしやすいかもしれませんね。


○千歳川の概要(北海道開発局)

 

https://www.hkd.mlit.go.jp/sp/titose_kasen/kluhh40000006r2u.html


○石狩川の概要(国土交通省)

 

https://www.mlit.go.jp/river/toukei_chousa/kasen/jiten/nihon_kawa/0109_ishikari/0109_ishikari_00.html

 


千歳川が日本海に向かって流れていたとしても、本来それは千歳川の勝手ですよね。

しかし、北海道内の輸送という視点で考えると、たしかに太平洋と日本海を水路で繋ぐという構想には一定の意味があるように思えてきます。

当時の日本国内、北海道内が現代のように、コンクリート舗装された道路が普及していて、トラックが列を成して物資を運搬し、あちこちでガソリンを給油できるという状態であったとは考えにくいです。

そうなると、水運のほうが効率よく物資も人も輸送ができたことでしょう。

この構想には、当時の軍隊(海軍)も関心を寄せていたのだそうです。

かくして、「道庁の構想」「住民の希望」「軍隊の関心」という3者の思惑が一致したというわけです。

 

学生の「流汗」の理由は、「勤労奉仕」

 

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「流汗」したのがなぜ学生であったかについては、当時の情勢が関係しています。

当時日本は中国との間で日中戦争が長期化していました。

このような情勢下で、国に忠誠を示すための行動として「兵役に就く」ということがあったわけですが、まだ徴兵を免除されている人々というのが学生でした。

学生たちは、徴兵を免除されている自分たちが、国家に尽くす機会として「勤労奉仕」を行うという運動を起こしていました。

この勤労奉仕の場所として、当時の地元代表、宮北三七郎が学生たち、つまり「学生義勇軍」を長都沼に招致し、排水路の掘削工事が行われたというわけです。

もちろん「学生義勇軍」は北海道内の学生にかぎらず、日本全国から集まってきた学生でした。

 

現代の「大学排水」の様子

 

こうして行われた事業だったのですが、水路の造成は太平洋戦争開戦までには完了せず、戦後になって完了しました。

当初、勤労奉仕としてこの地を訪れた学生は、戦局の悪化や年齢によって、終戦までに多くが徴兵されてしまったのだそうです。

 

大学排水の上にかかる「大学橋」

 

戦後は輸送路としての陸路が発達したので、太平洋までを繋ぐ運河という構想は実現には至りませんでした。しかし、長都沼の干拓は成功したので、住民にとっての本当に必要な工事は戦後に最終的に完遂されたということですね。

 

 

碑には学生たちの名前が刻まれています。

まともな重機もなくほぼ手作業での掘削工事だったとのことですから、当時の学生の労苦は大変なものだったのでしょうね。

 

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大学橋記念公園

 

現在、碑があるこの場所は「大学橋記念公園」と呼ばれています。

 

 

○地図

 

 

○リンク

大学排水(北海道開発局)

https://www.hkd.mlit.go.jp/sp/kasen_keikaku/kluhh40000000xy7.html

 

 

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