幕末北海道と仙台藩の関係!「仙台藩白老陣屋跡」
こんにちは、えぞまち歴史部です。北海道の歴史の中でも、幕末の時代は大きな転換点となったことは間違いないでしょう。
といっても、有名な榎本武揚や土方歳三は箱館戦争で戦っており、幕末の北海道史はやはり函館を中心とした道南がメインという印象を受けます。しかし、幕末に北海道内にいたのは五稜郭で戦った榎本の勢力だけではありません。
今回えぞまちでは、外国勢力に対して、北海道警備のために仙台藩から派遣された藩士が拠点としていた、「仙台藩白老陣屋跡」を訪れてきました。
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「仙台藩白老陣屋跡」とは?
「仙台藩白老陣屋跡」は、白老郡白老町にある国指定史跡です。陣屋は現代で言うところの「駐屯地」、あるいは「駐在所」の意味合いですね。本来は役人が駐在する場所、という意味なので、厳密に言うと「お城」とは異なるのですが、統治の中心地という意味で城も近い概念です。
本拠地の藩に「奉行所」があり、北海道の警固地に飛び地としての「陣屋」を築く、と考えると理解しやすいでしょう。
なぜ白老に仙台藩が陣屋を築いたのか?
この陣屋が築かれたのは1856年のことです。なぜ北海道(蝦夷地)の警備であるのに、「松前藩」ではないのかというと、当時の北海道を取り巻く情勢にその理由を見出すことができます。
1854年、日本はアメリカと日米和親条約を結びました。その後イギリス・ロシア・オランダとも同様に和親条約を締結したわけですが、条約相手のひとつであったロシアは
「南下政策」を採っていました。ロシアが南下政策を採っていたのは、「不凍港」(年間を通して凍結することのない港)の獲得を求めていたためです。
和親条約締結以前には、1807年にロシア海軍士官が択捉島・礼文島・樺太南端の留多加郡を襲撃した事件がありました。
また歴史が進むと、1861年にはロシアの軍艦が対馬近海に突如居座って、上陸を求めたり物資を求めた「ポサドニック号事件」も発生しています。
つまり、当時の海外勢力の中で幕府はロシアに最大限警戒しており、その懸念は経験上からも、また後の歴史を見ても、正しいものだったといえますね。
さらに北海道は、強力な南下政策をとるロシアに加えて、アメリカが捕鯨のための
中継基地を求めてきたり、イギリスが薪水の補給を求めてきたりといった情勢でした。
このような状態の中で、幕府は従前から北海道の統治を行っている松前藩に加えて、東北(奥羽)諸藩にも蝦夷地警固のための出兵を命じました。
仙台藩は、白老・襟裳岬・国後島・択捉島までの範囲を守備範囲としており、その拠点となる陣屋を白老に築いたというわけです
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白老元陣屋跡を見学!
白老元陣屋の入り口にたどり着くと、まずは大きな土塁が出迎えてくれます。
厚みのある土塁なので、大砲の砲弾が着弾しても被害を極限できるようにしてあるのですね。
石垣ではなく土塁であることも加わって、函館・五稜郭の稜堡に似ていますね。
「御門」から中に入ると、「長屋跡」があります。
パネルの説明にもありますが、曲輪の西側には小川が流れていて、この小川をそのまま堀として活用したようで、天然の地形を活用した陣屋だったのですね。
このエリアは「外曲輪」で、御門を入ってすぐの場所にある「四番長屋」は「大筒方」、つまり大砲の砲手ですね。目付・医師・貝吹がいる「三番長屋」は、外曲輪の中でも内曲輪寄りに配置されています。
その奥には、堀を挟んで詰御門、その先に内曲輪があります。
まず内曲輪の中心付近には「本陣」があります。
本陣はわずかに高くなっていました。
内曲輪の土塁の側には「兵具蔵」「穀蔵」があり、「勘定所」や「厠」がありますね。
このあたりも駐在するには大切な施設です。
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曲輪の西側には、「鹽竈神社(塩竈神社)」、東側には「愛宕神社」があります。
塩竈は塩竈市の塩竈神社を勧請してお祀りしていたのですね。
飛行機もなく、北海道開拓もほとんど進んでいない当時ですから、仙台から蝦夷地へ派遣されるというのは、やはり心細いものだったでしょうね。
塩竈神社は、少し小高い丘の上にあります。
先に触れた、堀に活用された西の小川も見下ろすことができます。
石灯籠に刻まれている日付は…なんと「文久元」年!(1861年)
小さなお社でしたが、なんとも味わい深い佇まいです。
内曲輪からもう少し先に進むと、「仙台藩元陣屋資料館」があります。
こちらも見学してきましたので、後日別の記事として公開します。
お楽しみに!
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●施設情報
■施設名:白老仙台藩陣屋跡
■住所:〒059-0912 北海道白老郡白老町陣屋町681
■地図:
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