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【歴史部】<江別市>榎本武揚の名前が江別市に!?榎本公園 / 史跡 対雁番屋・駅逓

 

見知った場所でも、よくよく観察すると史跡やスポットになっていることがありますね。

今回えぞまちが訪れたのは、江別市の工場地帯の片隅にある「榎本公園」です。

榎本といえば「あの」榎本武揚、北海道には馴染み深い人物です。

なぜ江別のこの場所に、榎本の名前を冠した公園が存在するのでしょうか…!

 

 

 

江別市に「榎本公園」ができた理由は?

 

「榎本武揚」は、幕末日本や北海道の歴史に関心があれば、目にしたことのある方も多いでしょう。

戊辰戦争において、幕府海軍副総裁を務めた榎本は、江戸開城後も艦隊を新政府軍に引き渡すことを拒み、当時の最新鋭艦「開陽」を筆頭とした艦隊を率いて北上、函館へ降り立ちます。

 

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その後、榎本率いる勢力は新政府軍に敗北してしまいますが、榎本はその後特赦によりふたたび重要な役割を命じられます。それが、北海道内の資源調査でした。

 

1872年の謹慎放免以降は開拓使四等出仕として任官し、道内の鉱山を検査・巡回する任に就きます。

 

函館周辺・八雲町、石狩、空知、十勝、釧路と全道を巡回し、そして榎本は石狩炭田・空知炭田を発見。さらに、石狩川沿いのある場所、土地20万坪の払い下げを受け、「榎本農場」を開きました。

 

この「ある場所」というのが、当時「対雁(ツイシカリ)」と呼ばれていた場所、現在の江別市だったのです。

 

榎本武揚が対雁の地に農場を開いたことを「江別発祥」として、この地に榎本武揚を顕彰する目的で作られた公園となったということですね。

 

実はすぐ近くにも榎本に関わるスポットが!?

 

この「榎本公園」の北側には石狩川が流れています。榎本公園と石狩川を挟んだ対岸には、「篠津養蚕場跡」があります。

 

ここも実は榎本にゆかりのある地で、榎本が ”「シノツ」河口ヨリ、右側直チニ桑樹アリ。(中略)養蚕ノ極所ナリ” と調査した記録があり、榎本がこの地を養蚕場にすると良いのではないかと考えた地です。

 

篠津養蚕場跡(史跡 篠津太養蚕室跡)については、えぞまちで過去に記事で取り上げておりますので、ぜひこちらもご覧ください!

 

www.ezomachi.com

 

「榎本公園」には何がある?

 

さて、ここまで解説してきたような経緯で公園となったこの場所ですが、内部にはどのようなものがあるのでしょうか。まず目を引くのはこちらでしょう。

 

 

榎本武揚顕彰碑」です。先に解説したような、なぜこの地に榎本武揚を顕彰する碑が建てられているのかという経緯が解説されています。

 

 

ちょっと写真だとわかりにくいのですが、この碑の台座は星型になっています。

 

<函館市の「五稜郭」を思い出しますね。

 

 

 

碑の上の像は馬に乗った榎本です。この馬は「道産子(北海道和種)」であるため、像もその特徴を取り入れ少し小柄な体躯として作られたそうです。

 

 

次に、「対雁百年碑」です。この地には、かつて「対雁神社」がありましたが、昭和46年に社を解体、御神体をこの碑の中に奉置したよ、ということが書かれています。

 

また、対雁村については、明治四年(1871年)に宮城県桶谷領農民二十一戸七十六人が来住し、対雁村となった、という旨が書かれていますね。(後述)

 

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史跡 対雁番屋(津石狩)・駅逓

 

この「榎本公園」には、「対雁」に関わる史跡がもう一つあります。形こそ失われていますが、公園入口にその表示を見ることができます。

 

 

それがこちらの表示「史跡 対雁番屋(津石狩)・駅逓」です。

 

1868年(慶応四年)に、この江別の地に最初に定住した和人が「立花由松」という人物でした(移住したのは慶応三年との説もあります)。

 

この人物は陸奥国北郡横沢村の農民だったそうで、「石狩場所(アイヌと和人との交易所)」の漁場経営者であった「阿部屋」の雇員として移住したようです。立花由松氏はこの地で、鮭漁の納屋守・通行屋・荒地開墾などの業務に就いていたようです。

 

その後、明治四年に宮城県からの入植者七十六人、明治九年には樺太(サハリン)に住む八百五十四人のアイヌが移住させられたとあります。

 

学校や製鋼所、駅逓所、対雁・江別両村戸長役場が置かれたとのことですから、現在の江別市の中でも対雁側の中心地となっていたということですね。

 

しかし、明治十五年に鉄道が開業すると、江別・野幌側に人が移りはじめたほか、十九・二〇年にはコレラが流行し、対雁は衰退。一八年に駅逓所が廃止、十九年には戸長役場と郵便局が移転したとのことです。

 

建物跡などが残っていないのは残念ではありますが、かつてはここが対雁エリアの中心街だったことを知ることができますね。

 

なお、対雁はもともと「津石狩」とも表記されていたそうです。語源としてはアイヌ語の「トイシカリ」:曲がりくねった川 や、「ト・エ・シカリ」:沼がそこで曲がる という説のほか、「トゥエシカリ」:元の石狩川 なのではないかとする説もあるようです。

 

なのでこの表示も、「津石狩」を併記しているのですね。

 

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おわりに

 

公園というと、住宅地の真ん中にあって子どもたちの遊び場になっているようなイメージがあるかもしれませんが、この榎本公園は周辺に民家などはなく、訪れるタイミングにもよるでしょうがほとんど人もいません…。

 

史跡として訪れてもよいですし、自然豊かで静かな場所でもあるので、ゆっくりと散策したり休憩したりするのもよいかもしれませんね。江別市の歴史を知る上ではぜひ抑えておきたいスポットです。

 

施設情報

◯施設名:榎本公園(史跡 対雁番屋・駅逓跡)
◯住 所:〒067-0051 北海道江別市工栄町10−6
◯地 図:

 

 

 

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