北海道の歴史とも深い関わりのある「養蚕」
こんにちは、えぞまち歴史部です。
北海道だけでなく、日本の歴史にとって「養蚕」は非常に大事な産業のひとつでした。
養蚕が大陸から日本に伝わったのは弥生時代ごろとされており、日本各地に養蚕の歴史を見出すことができるのですが、特に養蚕が全国的に隆盛期を迎えたのは明治時代といわれています。
明治時代に入って海外との貿易が盛んになり、輸出品目としての絹が重要になった…つまり、経済がそれまでよりも、一気にグローバル化して、 絹糸が「外貨獲得手段」の筆頭品目になった、ということですね。
北海道においても養蚕についての記録は各地にあります。札幌市厚別区にある「開拓の村」にも、養蚕場の復元展示が行われています。また、旭川市東旭川町にも、「知る人ぞ知る」な養蚕民家の史跡があります。
www.city.asahikawa.hokkaido.jp
今回えぞまちが訪れたのは、江別市篠津にある「篠津養蚕場跡」(史跡 篠津太養蚕室跡)です。
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篠津開基百周年記念 史跡篠津太養蚕室跡
「篠津太養蚕室跡」は、江別市内を流れる石狩川のほとりにあります。
事前情報がないと見落としてしまう可能性が非常に高いのですが、ここより若干北にある「町村農場」へソフトクリームを食べに行ったことがある方は、通りがかったことがある可能性が高いですね。
さて、肝心の碑の内容なのですが、「昭和五十六年七月七日建立」「篠津開基百周年記念」「史跡 篠津太養蚕室跡」の表示があります。
そして傍らには、「篠津旧兵村フラワーロード掲示板」があり、説明が記載されていました。
要約すると… 篠津村の誕生は明治14年(1881年)7月1日であったようですね。
同年の7月7日時点での屯田兵は19戸・81人が旧兵村にいたようです。
明治9年に開拓使が篠津川河口に養蚕室を建設する以前、榎本武揚が ”「シノツ」河口ヨリ、右側直チニ桑樹アリ。(中略)養蚕ノ極所ナリ”と記載していることから、この場所には桑の木が多くあったので、榎本は養蚕場にしたらいいんじゃないか、という言葉を残していたということですね。
また、このあたりでは養蚕だけではなく、篠津川・石狩川から捕れる魚にも恵まれていたようです。
とはいえ、当時の治水技術ではおそらく大規模な水害もあったため、川は当時の住民にとって、豊かな恵みをもたらしてくれる存在ではありつつも、水害という意味では複雑な感情を持ちつつ、この地で生活をしていた…というようなことが書いてあります。
当時の篠津の屯田兵屋と屯田配置、そして養蚕室については、江別市のホームページでも解説されています。
石狩川の河川水防に関しては、「江別河川防災ステーション」にその役目が引き継がれており、根固ブロックも置かれていました。
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日本を含めた世界中で、川や水を豊作の神さまとして有難がる一方で、ひとたび牙を剥けば恐ろしい存在にもなりうるという畏怖を込めて、川や水の神様に「龍」や「蛇」、といった姿を当てはめてきたという、「川と人のかかわり」も思い起こされますね。
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おわりに
この「史跡篠津太養蚕室跡」は、掲示板と石碑以外に目立った施設などはなく、ここだけを目指して訪れるという人は珍しいかもしれません。
ですが、この石碑や掲示板の表示を見て、あらためて地図を見てみると、(河川の形は現在とは異なっていますが)当時の人々がどのような生活をしていたのか、なぜこの地にこの史跡が築かれるにいたったのか、という答えに近づけるようにも思える、歴史を感じさせるスポットでした。
●施設情報
■施設名:篠津養蚕場跡(史跡篠津太養蚕室跡)
■住所 :〒067-0055 北海道江別市篠津
■地図 :
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