EZOMACHI -えぞまち-

北海道の”おいしい” ”たのしい” ”おもしろい”を見つけるサイト

 MENU

【歴史部】<札幌市>『赤い靴 はいてた 女の子…』童謡「赤い靴」の軌跡が札幌にありました!

記憶に残る童謡「赤い靴」

 

 

こんにちは、えぞまち歴史部です。
赤い靴 はいてた 女の子 異人さんに連れられて 行っちゃった」という童謡、小さい頃に聞いたことがあるという方も多いのではないでしょうか。
この歌は、1922年(大正11年)、野口雨情作詞・本居長世作曲によって発表されました。
冒頭に記載した1番の歌詞が有名で、かつ曲調もどことなく悲愴を感じるようなものであるため、この歌は人々の記憶に残りやすく、「女の子に何があったんだろう?」「どうして異人(※当時の「外国人」)に連れられていってしまったのだろう」「その後、女の子はどうなったのだろう…?」と、様々な感情が巻き起こりますね。

 

…といっても、えぞまちではそこまでこの歌について調べることもなかったのですが、今回偶然にも、北海道・札幌市南14条西にある「山鼻公園」にて、この「赤い靴」と関係のある碑を発見しました。

そこから、「赤い靴」のことを調べてみるとともに、札幌市との関わりについても記事にしてみようと思ったのです。

 

※童謡「赤い靴」の成立には、様々な異論・異説がありますが、この記事ではそのうちの一説について紹介します。

 

童謡「赤い靴」のモデルとされたエピソード

 

そもそも「赤い靴」については、実話を題材として歌詞が作られたという説があります。
つまり、作詞をした野口雨情氏には、この「赤い靴」の歌詞と似通うエピソードを見聞きしたことがあったのではないか?ということですね。

この「赤い靴を履いていた女の子」というのは、「きみ」という名前の少女がモデルとなっているとされており、「きみ」には、「岩崎かよ」という母親がいました。
「岩崎かよ」という女性は静岡県出身の女性ですが、山梨県の紡績工場に働きに出ていました。
かよは18歳であった1902年に妊娠、しかし、父親となるべき男性が「訳あり者」であったために、結婚することなく故郷に戻り、未婚の母として出産しました。
このとき産まれた子が、のちに「赤い靴」のモデルとなる「きみ」でした。

 

なお、かよが名乗っている「岩崎」は、かよの父の姓です。(父:岩崎清右衛門)
「きみ」は、母親の姓である「岩崎」とされている記載もありますが、場合によっては「佐野」とされる例もあります。この「佐野」は誰の姓なのかという疑問が湧いてきますね。
実は「佐野」姓は、きみとは少し関わりが遠く…。

 

かよが5歳のときに、かよの父(岩崎清右衛門)は急死してしまいます。
その後、かよの母が同棲をはじめた男性の姓なのです。(佐野安吉)

 

さて、ともかくも「きみ」を出産した「かよ」ですが、この後山梨県の紡績工場には戻らず、北海道・函館に渡ることとなります。
時代が時代だけに、未婚の母として故郷には居づらかったとの説もありますが、このあたりは諸説ありそうですね。

 

スポンサーリンク(広告)

 

 

 

そして函館に渡った「かよ」は、周囲の勧めもあり、青森県鰺ヶ沢町出身の新聞記者「鈴木志郎」と結婚します。
この「鈴木志郎」という人物は社会主義系新聞の記者であり、留寿都村で「ユートピア建設」を目指す「平民社農場」への参加を志します。
平民社農場というのは、社会主義団体「平民社」のメンバーが設立した農場で、留寿都村・真狩村で1904年から開拓農場の入植を進めていました。
鈴木が留寿都村に入植するにあたり、もちろん、かよ・きみも一緒に行きたかったのでしょうが、それができない事情がありました。

 

というのも、開拓農場への入植というのは過酷きわまる労働で、とても幼子を抱えてできるものではありませんでした。
かよは悩んだ末に、きみを養子に出し、鈴木とともに留寿都村へ行く道を選びます。
きみは函館にいたアメリカ人宣教師夫妻「ヒュエット夫妻」に託されました。

 

親子の別れは悲しいものだったでしょうが、ひとまず養親も決まり、きみの養育が行われるはずでした。
しかしその後、ヒュエット夫妻に米国への帰国命令が出てしまいます。
では、きみはヒュエット夫妻に連れられて米国に渡ったのかというと、そうできない事情がありました。

 

というのも、6歳になっていたきみは、当時不治の病とされた「結核」に罹っていたのです。
さらに、当時の米国への旅路は船旅で、小さな子供には過酷なものでした。
結核という重病、小さい子供であるということから、きみの米国への船旅は無理だと判断されました。
そのため、きみは今度は東京・麻布の孤児院に預けられることとなり、ヒュエット夫妻はきみを連れて行くことができず夫妻のみで米国へ渡ったのです。

 

なぜ函館にいたきみをわざわざ東京・麻布の孤児院に預けなければならなかったのかについては、明確な資料はありませんでした。しかし、おそらく「函館に結核療養所がなかった」ためではないかと考えられます。(当時は「サナトリウム」などとも呼ばれていました。)

函館市にはじめて市立療養所が設立されたの(函館市柏木町、60床)が大正14年、西暦に治すと1925年ですから、野口雨情が作詞した後となります。


きみはこの後、隔離病棟で闘病しましたが、とうとう病魔に打ち勝つことなく、9歳という年齢で病没してしまったのです。

 

「赤い靴」の歌詞とエピソードの相違点

 

さて、上記の悲しいエピソードですが、「赤い靴」の歌詞とは大きな違いがひとつあります。
それは歌詞一番の後段、「異人さんに連れられて行っちゃった」の部分です。
きみは「異人さん(ヒュエット夫妻)」に預けられましたが、ヒュエット夫妻は函館にいたのです。

ちなみに「赤い靴」の歌詞は1~4番まで歌詞があり、以下のようなものです。

1.    赤い靴はいてた女の子 異人さんにつれられて行っちゃった
2.    横浜の埠頭から汽船に乗って 異人さんにつれられて行っちゃった
3.    今では青い目になっちゃって 異人さんのお国にいるんだろう
4.    赤い靴見るたび考える 異人さんに逢うたび考える

やはりこの歌詞からは、「赤い靴はいてた女の子」は、「異人さんに連れられ」て、「横浜の埠頭(はとば)」から海をわたって、「異人さんのお国」にいる、という前提がありますよね。
これは、母親であるかよが、最後まで「きみ」はヒュエット夫妻に連れられて米国に渡ったものと思いこんでいたためとされています。

 

スポンサーリンク(広告)

 

 

 

母かよ、父鈴木志郎のその後

 

やむなくきみをヒュエット夫妻に預け、留寿都村へ入植したかよ・鈴木志郎のその後はどうだったのでしょうか。
実は、この平民社農場においても、過酷な運命が待ち受けていました。
開拓は困難を極め、かよが故郷から手伝いに呼んだ弟は過労で死亡、さらに、農場も火事に遭うなど、開拓の継続は困難に追い込まれました。
結局、かよ・鈴木志郎は開拓を断念、ふたりの間に新たに生まれた娘とともに、札幌に移り住むこととなりました。これが明治40年のことでした。

 

札幌に移り住んだ鈴木志郎は「北鳴新聞社」に入社、再び記者として活躍しますが、1年後にはふたたび真狩村へ行き、留寿都郵便局で集配人となります。かよは平民社農場跡地にて、農耕に従事しました。

 

その後の足取りは確かではありませんが、大正8年には一家で室蘭に移住したり、大正12年には炭鉱夫として夕張炭鉱で働いたりと、なかなかに激動の人生であったようです。
かよは昭和23年、鈴木志郎は昭和32年に、ともに小樽にて亡くなっています。

 

野口雨情の作詞

 

上記のようなエピソードが伝わっているのは、「赤い靴」の影響が大きいですが、では作詞した野口雨情は、どこでこのエピソードを知ったのでしょうか。
これは、かよ・鈴木志郎とその娘が札幌に移り住んだ際、長屋の隣に住んでいたのが野口雨情の友人であったとされているのです。
この隣人に、長年忘れることのなかった自分の娘についての話を聞かせ、それをもとに野口雨情が「赤い靴」を作詞したとされています。

なお、野口雨情氏の作詞した「赤い靴」は、先に記載したように4番で終わっているのですが、この詩には「幻の5番」があるとも言われています。
1978年に発見された草稿にあった「幻の5番」は、次のような歌詞であったとされています。

生まれた日本が恋しくば 青い海眺めているんだろう 異人さんにたのんで帰って来(こ)

なぜこの5番が公表されることなく削られたのか、野口氏にしか知りえぬ思いがあったのかもしれませんね。

 

スポンサーリンク(広告)

 

 

 

山鼻公園に「赤い靴」の碑が!?

 

 

さて、ここまでは童謡「赤い靴」のエピソードでした。
ここで冒頭の話に戻るのですが、札幌市「山鼻公園」に「赤い靴」碑があります。
これは、留寿都村での開拓に挫折したかよ・鈴木志郎夫妻が移り住んだ長屋というのが、札幌・山鼻地区であったというエピソードに基づいているようです。

 


山鼻公園の一角にひっそりと佇む碑の裏面には、「赤い靴」のエピソードの概略と、「札幌で生まれた童謡『赤い靴』の会」によって設置された旨が書かれています。

 

「赤い靴」碑は他にも

 

「赤い靴」の童謡の知名度は高く、また、この記事で解説したエピソードも1978年にドキュメントとして放送されたことから、大きな注目を集めました。
その後、「赤い靴」の女の子に関わりのある以下の場所に記念の像が設置されています。

  • 静岡県 日本平「母子像」
  • 東京都 麻布十番「きみちゃん像」
  • 北海道 留寿都村「母思像」
  • 北海道 小樽市「赤い靴 親子の像」
  • 北海道 函館市「赤い靴 少女像」
  • 青森県 鰺ヶ沢町「赤い靴 親子像」

 

スポンサーリンク(広告)

 

山鼻地区の歴史に関するこちらの記事もおすすめです!

www.ezomachi.com

www.ezomachi.com

 

 

施設情報

 

 

●施設名:「赤い靴」歌碑
●住所 :〒064-0914 北海道札幌市中央区南14条西10丁目2
●地図 :

 

 

スポンサーリンク