こんにちは、えぞまち歴史部です。
北海道の歴史のポイントのひとつに、開拓時代があります。
札幌市厚別区にある開拓の村をはじめ、各地に開拓時代の歴史を伝える施設・資料館があり、えぞまちでもこれまでにいくつかをご紹介しています。
※いくつかを抜粋しました。
今回えぞまちでは、北海道開拓時代の建物のひとつ、深川市にある「旧鷲田農場事務所」の建物を訪れました。
スポンサーリンク(広告)
●「北海道開拓」と「華族農場」のカタチ
さて、「北海道開拓」ということを調べていると、やはり開拓民の苦悩や苦労に関する記述を見かけることが多くあります。
それもそのはず、当時の北海道は一面原野・沼地・森林といった具合で、そこを人の手で開拓していったわけですね。
人数についても、開拓民全体で見れば大勢になりますが、各地区という意味で見ると、数十戸や十数戸といった小規模な開拓民の集団が移住して、そこから少しずつ、重機や交通インフラもない中開拓を進めてきた…というのが、北海道開拓の歴史で一般に語られる内容です。
それとは若干異なる趣を持っているのがこの「旧鷲田農場事務所」です。
旧鷲田農場事務所は明治43年に着工、3年間をかけて建設されました。
「旧鷲田農場」というからには、鷲田さんという方の農場だったのでしょうが、この鷲田氏は、華族の方でした。
この鷲田氏の華族というご身分と、もう一つのキーワード、「華族農場」という言葉を組み合わせると、この建物の内容にもう少し踏み込むことができます。
「華族農場」というのは、明治政府が創設した小作制度的農場です。
その内容は、官有地を無償や低価格で北海道の土地を華族に払い下げる、というもの、そして、その土地を華族が経営する農場とするものです。
こうしてできたのが「華族農場」というわけです。
華族農場の目的としては、華族の経済的基盤を支えるという意味合いがあったようですが、北海道開拓の効率性を上げる効果も生みました。
華族農場として格安や無償で取得した「農場予定」の土地に、資本を背景にして大規模に小作農を集めて集中的に派遣し、一気に開拓させ農場化するというわけですね。
広大な北海道の土地を開拓するには、家族単位や小規模な集団による開拓よりは、確かに合理的で効率的な方法です。
ちなみに華族農場についてはこの深川市よりも、空知の雨竜原野が有名です。
この雨竜原野は三条実美公爵・蜂須賀茂韶侯爵・菊亭修季侯爵らが「華族組合農場」として経営していましたが、この農場はのちに失敗し、1891年(明治23年)に解散、その後は個別に小作人を派遣して、小作制の大農場が各地につくられました。
旧鷲田農場事務所が明治43年に着工されたとのこと、音江の鷲田農場は成功を収めたといってよいのでしょう。
スポンサーリンク(広告)
●「旧鷲田農場事務所」の内容と鷲田軍蔵氏のその後
「旧鷲田農場事務所」は、深川市音江町にあります。周囲は保育園や住宅街なのですが、車で道を走っていると突然オシャレな建物が現れるので、通りがかりに興味を持った方もいるかもしれませんね。
白くて美しい姿が印象的です。
建築の印象としては和洋折衷なつくりで、開拓の村などでも似た様式を見かけることがありますね。
木材としてはカツラやエンジュが使用されているのだそう。
洋風の「軒蛇腹」「胴蛇腹」が特徴的です。
ファンライト(半円欄間)もおしゃれですね。
細部までかなりオシャレに作り込まれた建物だなという印象を受けます。
この「旧鷲田農場事務所」は大正時代に音江村に売却され、以降は役場や公民館などとして利用されたようです。
現在は遺物収蔵庫として利用されているとのことです。
ちなみに旧鷲田農場事務所は、鷲田軍蔵氏が農場事務所兼自宅として建設したものなのですが、鷲田軍蔵氏は農場経営の傍ら、音江郵便局の初代局長、村会議員も務めた人物とのことで、音江村・深川市に大きな貢献をした人物であるようですね。
スポンサーリンク(広告)
●施設情報
■施設名:旧鷲田農場事務所
■住所 :〒074-0000 北海道深川市音江町2丁目11−38
■URL :https://www.city.fukagawa.lg.jp/cms/section/gakuspo/ik75k4000000lriq.html
■地図 :
スポンサーリンク(広告)