EZOMACHI -えぞまち-

北海道の”おいしい” ”たのしい” ”おもしろい”を見つけるサイト

 MENU

【歴史部】<当別町>伊達家の足跡が当別町にありました 「当別伊達記念館・伊達邸別館・当別神社」


こんにちは、えぞまち歴史部です。
北海道の歴史については、これまでえぞまちでも様々な時代・地域にわたってご紹介してきました。
そんな中でも、日本の歴史の中で北海道が大きな転換点を迎えるのが幕末~明治にかけての時代です。

こうした明治初期、仙台藩によって開拓が行われたのが、石狩郡当別町。ここ当別町には、仙台藩の開拓民が当別町を開拓した歴史について展示している「当別伊達記念館・伊達邸別館」があります。

 

 

当別開拓の歴史

記念館の内容に入る前に、少しだけ当別開拓の歴史を解説してみます。
当別が「開拓」の対象となったのは、明治元年(1869年)のことです。現在の当別町のある地域一帯が、当時の「北海道石狩国石狩郡」の領域の中に加えられたことで、開拓使の管轄の領域となります。

そして、いよいよ開拓に乗り出したのが明治4年(1871年)4月のこと。この年は、7月に廃藩置県という大きな出来事を挟んだ時期でもありました。「旧」仙台藩 岩出山一門 伊達邦直が、元家臣らとともに当別の開拓に着手できたのが翌明治5年(1872年)のことです。これ以降、同じ伊達家である旧宇和島藩も加わり、当別町の開拓が推し進められました。

明治15年(1882年)には、北海道が「三県一局」の体制となったことで、当別は一度「札幌県」の一部に含まれます。この後、札幌県は北海道庁に統合され、次に「当別」の呼称が用いられるのは明治35年(1902年)のことで、大日本帝国憲法下における北海道の「二級町村制」により、「石狩郡当別村」という呼称になりました。「当別村」の呼称が「当別町」となったのは昭和22年(1947年)の町制施行を行ってからとなります。

 

スポンサーリンク(広告)

 

 

当別を目指す伊達家が直面したもの

さて、現代の当別といえば、広々とした農地を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。生花やお米・野菜の生産でも有名です。

しかし、明治4年当時の伊達家が直面したのは、当然ながら広々とした農地などではなく…「昼なお暗い一面の原始林」でした。現代と違い重機も車もないなか、人力で木を切り、場合によっては根を掘り起こしたりして、少しずつ開拓を推し進めていったわけですね。

また度々水害・冷害にも悩まされたという記録があります。

それでも、伊達邦直率いる一団には、当別を開拓しなければならない理由があったのです。

なぜ伊達邦直は北海道を開拓したの?

 

伊達邦直という人についても少し触れておきましょう。伊達邦直は天保5年(1834年)生まれ、陸奥国(陸前国)玉造郡岩出山(現在の宮城県大崎市岩出山)の出身です。19歳で岩出山伊達家10代目を相続した人物です。

伊達邦直が当別を開拓することになるきっかけの出来事は、やはり幕末「戊辰戦争」でした。

このとき、奥羽越列藩同盟に加わっていた仙台藩の命により、伊達邦直も官軍と交戦しています。山形での戦いでは勝利するなど活躍したのですが、やがて官軍の勝利となりました。

戦後には、仙台藩は「賊軍」との汚名を着せられ、禄高を62万石から28万石に減封されました。伊達邦直の「仙台岩出山藩」も、14000石の禄高を、なんと65石に減封され、岩出山城は召し上げ、家臣も士分剥奪となりました。

 

 

侍ではなくなった家臣は「帰農(農民)」を命じられたのですが、伊達邦直はこのままでは家臣が路頭に迷ってしまうと憂い、家財を処分して得た資金をかき集め、新政府が推し進める北海道開拓へ志願、1869年には一度石狩国空知郡の支配を命じられました。しかしこの空知郡の支配は(内陸地であったため)物流などの面で困難を極め失敗してしまいます。

再度開拓に乗り出した1870年には、「厚田郡シップ(現:石狩市厚田区聚富)へ移住しました。しかしこの地は土質が悪く、砂地が多かったために不毛の地で、またもこの地の開拓に失敗します。

当時の開拓長官「東久世通禧」への嘆願により、開拓地を移転することが許されます。そして三度目の挑戦で当別の開拓に取り掛かったのです。

 

スポンサーリンク(広告)

 

 

当別伊達記念館・伊達邸別館で見られるもの

少し前置きが長くなってしまいましたが、これで当別の地に伊達家の記念館がある理由がわかりました。

それでは、いよいよ当別伊達記念館・伊達邸別館の内容に移っていきましょう。

当時の伊達家の人々の暮らしが垣間見える展示

 

まず、こちらが展示のある建物です。

 


ここでは、当時の岩出山伊達家の人々の当別での暮らしに関する展示や資料を見ることができます。

 

 

幕末・明治時代に関心のある方々には興味深い展示となるでしょう。

 

 

開拓の様子を版画で示した展示もありました。

当時の邦直公の様子がうかがえる?伊達邸別館

 

続いてこちらは「伊達邸別館」です。

 


明治13年に建築されたものといわれ、来客があった際の宿泊場所として、懇談場所として、そして村政執行のための会議などの場としても活用された建物です。

 

 

内部には会議室・来客控室、そして…

 

 

かなり急な階段を登り、2階も見学することができます。

 

 

2階では、邦直公が奥様と懇談しているところに、部下が報告をしにきた様子が復元されていました。

 

 

記念館の前にあるこの碑には、歌が刻まれています。

 

あそ山の しげる木立を ふみ分けて
住み見し月の 今も替らず

 

邦直公は「桃園」と号した歌人でもあり、厳しい開拓事業の中で、家臣との歌会を唯一の楽しみとしていたのだそう。

ちなみにこの「あそ山」は、阿蘇山(熊本)のことではなくて、街の北にある「阿蘇岩山 (アソ・イワ:アイヌ語で「柴の多い山」)」のことを指しているようです。

当別開拓の歴史は「当別神社」にも!

 

当別伊達記念館・伊達邸別館から徒歩でもすぐの場所に、「当別神社」があります。

 

 

ここにも、「当別村開拓紀功碑」など、伊達邦直の開拓の歴史をうかがい知ることができるスポットがあります。

 

スポンサーリンク(広告)

 

 

施設情報

◯施設名:当別伊達記念館・伊達邸別館
◯住 所:北海道石狩郡当別町元町105
◯URL  :https://www.town.tobetsu.hokkaido.jp/soshiki/syakai/39958.html
◯地 図:

 

◯施設名:当別神社
◯住 所:北海道石狩郡当別町元町51−12
◯URL  :https://tobetsujinja.hokkaido.jp/
◯地 図:

 

こちらの記事もおすすめです!

www.ezomachi.com

 

www.ezomachi.com

 

www.ezomachi.com

 

 

 

スポンサーリンク