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【歴史部】<札幌市>休憩所としての機能美!札幌中心部に佇む「清華亭」を訪れました。

札幌中心部にある大切な歴史スポット!


こんにちは、えぞまち歴史部です。
歴史的建造物や遺跡など、「歴史スポット」と呼ばれるようなものは、維持管理に大変な費用と労力がかかるものです。
そうした理由から、街の発展とともに碑やパネルだけが残され、建物そのものは解体され失われてしまうこともありますね。

さて、今回えぞまちで訪れたのは、札幌市中心部、札幌駅のすぐ近くにある歴史スポット「清華亭」という建物です。

清華亭とは?

 

「清華亭」は、札幌市北区北7条西7丁目にある建物です。札幌の文字通り「中心地」といえるJR札幌駅西口からは徒歩で5~10分ほどと、すぐ近くにあります。北8条通りを挟んで向かいは、北海道大学の敷地です。

 

 

さて、この「清華亭」は、1881年の明治天皇北海道行幸のために、1880年に作られた建物です。1881年の行幸というと、多くの人が思い浮かべるのが、現在は中島公園に移築された「豊平館」でしょう。「豊平館」は、このとき行在所として作られた建物で、当時は北1条西1丁目、現在では札幌市民ホールのある場所に建築されました。

 

※「豊平館」については、えぞまちでも訪問して記事にしています。

www.ezomachi.com

 

「豊平館」はこの記事にもあるように「行在所」(…一時的な宮殿、という意味ですが、実用面では滞在される場所という意味ですね…)として建築されたのですが、「清華亭」は行在所ではなく、「休憩所」として建築されたものだったのです。

 

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1881年明治天皇の行幸はそんなに大変だった?

 

「清華亭」の建築が、1881年の明治天皇行幸の際の休憩所として使うために建築されたと聞くと、わざわざ休憩所を作るなんて!?と思ってしまいそうなものですよね。

ところが、この1881年の明治天皇北海道行幸はなかなか大変な道のりでした。

まず、本州から北海道へ渡るために明治天皇が青森県に入ったのは明治14年(1881年)8月27日のことでした。
8月29日に、御召艦「扶桑」に乗船して青森港を出港、小樽港を目指しました。しかし、この日激しい暴風雨が吹き荒れていました。扶桑は出港後、津軽の人々が乗った漂流船を暴風雨の中で発見し、救助を行うなどしたため、到着が3時間も遅れることとなりました。

さて、遅れて到着した扶桑でしたが、小樽に入港後、「煤田開採事務所」でお休みになり、その後午後6時から、特別列車で札幌に向かわれました。

小樽~札幌間は鉄道で結ばれていたものの、札幌市内は現代とはまったく異なり、道の舗装も限定的、生い茂る草木を人力で切り倒して少しずつ少しずつ開拓を進めている段階でした。

 

 

パネルにある「清華亭」創建時の写真や絵図で見ても、周辺の様子がよくわかります。

このような状態の札幌市内を、馬車であちこち行幸するのはやはり体力を消耗するものだったでしょう。
現代のように、疲れたらコンビニやカフェで一休みというわけにはいかなかったわけですね。

ですので、休憩所として「清華亭」を建築するというのは、実はそれほど贅沢な話でもなかったわけですね。

ちなみに、明治天皇が実際に清華亭を訪れたのは、行幸3日目の9月1日のことで、午後2時からの札幌農学校での理化学実験、そして博物館の展示をご覧になった後、午後3時10分ごろから清華亭を訪れました。

ここで、千島樺太交換条約によって、江別の対雁(ツイシカリ)に移住した樺太アイヌ移民の歌・踊りをご覧になったとのことです。

 

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清華亭の特徴

さて、このような経緯で建築・利用された清華亭でしたが、建物自体はそれほど派手には見えません。
しかし、細かく見ると実は様々な特徴があります。

 

内部に入ってまず気づくのは、「暖房設備がない」ことです。
同時期に建築された「豊平館」には、館内に重厚な意匠の暖炉が6基ありますが、清華亭にはありません。

 

「豊平館」には暖炉があります。

これは行在所としてではなく、あくまで「休憩所」として建築されたこと、そして行幸の時期が8月~9月という時期であったことが影響しているのでしょう。
つまり逆に考えれば、清華亭はこの行幸以降、同じ季節の同じ目的でなければ二度と使わないという想定だったのかもしれません…。

 

さらに、「和洋折衷建築」という特徴もあります。

 


入口から中に入ると、正面には和室があり、そこへ洋室が接しています。

 


和室側には床の間・縁側などの「和風」のテイストがあるのですが、洋室への扉は障子ではなく洋風の扉となっています。

 

 

そしてこの扉、お気づきの方も多いかと思いますが、「取っ手の位置が低い」です。
これは、和室側から「座って扉を開ける」ことを想定しているためです。

 

 

洋室側の「シャンデリア」を写した画像なのですが、実はこれはシャンデリアではなく、その基部にある「天井飾り」を写したものです。「桔梗」の彫刻ですね。このような意匠のある天井飾りは、旧永山武四郎亭や豊平館にも見られるようです。

 

限られた工期や資材・人手の中で、明治天皇の休憩所を作らなければならないという難しい問題に対して、「必要な機能に限定して、かつ美麗さも備えた建築物」として作られた清華亭、まさに「機能美」という感じを受けます。

 

 

なお、豊平館や、観光スポットとして知られている「時計台」は、移築されているのですが、この「清華亭」は建築時と同じ場所に残っているとのことで、これもまた貴重な建造物ですね。

 

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おわりに

今回訪れた「清華亭」では、明治天皇行幸の際の休憩所としての機能に特化して、必要な機能を十分に満たしながら美しい建築物にするという努力が垣間見えたように思います。

 

 

また、この「清華亭」が存在する、ルイス・ボーマーが手掛けた庭園「偕楽園」についても、後日記事にしてみたいと思います。

施設情報

 


○施設名:清華亭

○住所 :〒060-0807 北海道札幌市北区北7条西7丁目

○URL  :清華亭

○地図 :

 

【歴史部】<むかわ町>穂別博物館でド迫力の「首長竜」&「むかわ竜」と遭遇してきました!

化石が伝える北海道の歴史

 

 

こんにちは、えぞまち歴史部です。


自分たちが今住んでいる場所が、かつてはどのような姿であったのか、数十年前や100年前ですら、資料がなければ正しい姿は想像するほかありません。


それが何千万年前というと、もうまったく想像の範囲外、未知の領域に思えます。
そうした大昔の北海道の姿の一部を伝えてくれているのが、地層から発掘される「化石」です。


今回は、むかわ町穂別にある「穂別博物館」で、この地域で発掘された化石を閲覧してきました。

 

「穂別博物館」とは?

 

 

むかわ町穂別の「穂別博物館」は、むかわ町穂別地域から産出した化石が展示されている博物館です。

 

この後に詳しく解説しますが、当時の穂別地域は海の中だったとのことで、産出された化石もやはり海洋生物が多かったようですが、一部陸上生物の化石も産出しているようです。

 

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館内に入ってすぐ!大迫力の「首長竜」

 

 

さて、さっそく穂別博物館館内へ入ると、まず最初に「首長竜」が出迎えてくれます。
首長竜は首の長さがあるので、数字での全長以上の迫力があります。


この首長竜は全長約5mと推定され、むかわ町穂別長和で産出した化石とのことです。

 

 

それにしても、地図で見ると今は完全に内陸ですが、やはり何千万・何億年という時代の流れの中で、地形なども現代とは比べ物にならないほど変わっていることがうかがえます。

 

ちなみにこの首長竜は、分類的には「爬虫綱鰭竜目長頸竜亜目プレシオサウルス上科ポリコティルス科」に属する首長竜です。

 

ポリコティルス科の首長竜は、首長竜の中では首が短いという、「何を言っているんだ?」とツッコみたくなってしまうような特徴があるのですが、それはさておき…。

 

このポリコティルス科の竜は、白亜紀後期(約1億年前から7,000万年前ごろ)のものとされています。

「ポリコティルス科」に属する「ドリコリンコプス属」という竜が北アメリカで発見されているのですが、この属に与えられた「ドリコリンコプス」という言葉は古代ギリシャ語で「長い鼻の顔」という意味があり、この穂別で産出された首長竜も同様に長い鼻・口部分の特徴がありますね。

 

この口は魚や頭足類(イカ・タコ・オウムガイ類など)をとらえる役割を果たしていて、強力な歯で獲物を逃さないように捕獲していたようです。

 

穂別博物館への案内看板にも首長竜が登場しています!

 

櫂(オール)状の四肢も首長竜らしい特徴です。

 

<映画「ドラえもん のび太の恐竜」に登場した「フタバスズキリュウ(ピー助)」にも似ていますね。

 

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穂別産の「竜の神」!?「カムイサウルス・ジャポニクス(むかわ竜)」

 

 

さて、視線を巡らせますと…こちらの壁面にも大きな竜が展示されています。
こちらが通称「むかわ竜」こと、「カムイサウルス・ジャポニクス」です!

 

 

カムイサウルス・ジャポニクス(Kamuysaurus japonicus)という名前は、2019年9月に学術論文が出版され、正式な学名として付与された名前です。ではそれまではというと、2016年12月以降は、通称として「むかわ竜」が使われていました。このカムイサウルス・ジャポニクスが最初に発見されたのは2003年4月のことで、穂別町在住の堀田良幸氏が散歩中に発見しました。

 

発見当初はクリーニング作業や調査が後回しにされてしまったという経緯があったようですが、2010年からカムイサウルス・ジャポニクスの化石のクリーニング作業が進められ、2013年9月~10月と、2014年9月にそれぞれ発掘調査、2015年と2016年にも補足の発掘調査が行われ、全身の6~8割の骨化石が確認されました。

 

これらの化石入りの岩石の総重量は6トンにも及んだとのことですから、発掘調査というものが並大抵のことではないと感じさせられます。

 

さて、「カムイサウルス・ジャポニクス」がどんな竜だったのかということですが、分類としては「ハドロサウルス科ハドロサウルス亜科エドモントサウルス族」となります。


先に解説した、「カムイサウルス・ジャポニクス」の最初の化石を発見した堀田氏は、当初この化石を大きなワニのものではと思っていたとのことですが、この化石が発見されたエリア(現在は沢沿いの崖)は、先の項でも触れたとおり海であったとされていて、事実アンモナイトなどが発掘されることで知られており、地層も海成層(蝦夷層群最上部の函淵層と呼ばれる地層)であったようです。

 

ちなみに函淵層からは、主に二枚貝類、アンモナイトのほか、無脊椎動物の化石、そして「海トカゲ」の俗称で知られる「モササウルス科」の化石が産出されます。

 

そのため当初は、このカムイサウルス・ジャポニクスの化石も首長竜の一種と考えられたのですが、実際にクリーニング作業を行ってみると、「恐竜」のものであることが判明したというわけです。


(※「恐竜」という言葉には、翼竜・魚竜・首長竜等は含まず、「直立歩行に適した骨格を持った地上棲爬虫類」のことを指す)

 

こうしたクリーニングと調査の結果を受けて、このカムイサウルス・ジャポニクスについては、「陸上に生息していたにもかかわらず、海(しかも沖合い)の地層から化石が発見された」ということになり、そこから「一部の恐竜は、海岸線近くに生息し独自の進化を遂げたのではないか」という新しい考え方が生み出されたのです。

 

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もうひとつの見どころ「野外博物館」

 

 

この穂別博物館には、もうひとつの見どころ、「野外博物館」というものがあります。

 

 

「タイムトンネル」を抜けて、白亜紀の時代へタイムスリップ…!この構成を考えた方は素晴らしいですね。

 

 

トンネル内部では、かつての地球で生活していた生物たちが出迎えてくれます。このトンネル内部の生物は、カンブリア紀以降の6億年の間に、海で生まれた生物たちです。

 

 

さて、こちらが野外博物館。

 

 

「中新世(新生代)後期」の二枚貝・カニ、

 

 

先に触れた白亜紀後期の海に繁栄したモササウルス科の仲間、「ティロサウルス」の頭部や、同白亜紀の古代魚、

 

 

「ジュラ紀」のアンモナイト、

 

 

「カンブリア紀」の三葉虫などが展示されています。

 

 

高台となっている場所には、首長竜が覗き込んでいます。高台から見下ろすとなんとも迫力がありますね。

 

 

自然の中の野外博物館といった趣がある素敵な場所ですが、今後さらに資料や説明などが追加されていくのでしょうか。楽しみです!

 

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施設情報

○施設名:むかわ町立穂別博物館
○住所 :〒054-0211 北海道勇払郡むかわ町穂別80−6
○URL  :http://www.town.mukawa.lg.jp/1908.htm
○地図 :

 

【歴史部】<札幌市>資料点数およそ300点!サッポロピリカコタン(札幌市アイヌ文化交流センター)を訪れました

札幌市にあるアイヌ文化を伝える施設!

 

 

ウポポイのオープンや、「ゴールデンカムイ」の流行などの背景もあり、かつては「教科書で見たことがある」という程度だった人が多かったアイヌ文化や歴史への関心が高まっているように感じます。

 

こちらの記事もおすすめです!

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アイヌの歴史や文化を紹介する施設として、白老町にオープンした「ウポポイ(民族共生象徴空間)」は、広い敷地内に様々な資料・所蔵品の展示があるほか、体験型の展示なども数多くあり有名です。

しかし、札幌市内にもウポポイに勝るとも劣らない体験ができる施設があります。それが、札幌市南区小金湯にある「サッポロピリカコタン(札幌市アイヌ文化交流センター)」なのです。

 

サッポロピリカコタンではどのような展示が見られる?

札幌市民には馴染み深い温泉地である「定山渓温泉」、そのやや札幌中心街側に「小金湯温泉」があります。サッポロピリカコタンはその小金湯温泉に隣接する場所に位置しています。

 

ここでは、職人の手によって復元されたアイヌの衣装、生活用具や装飾品など多数の資料の展示を見ることができます!

 

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入口では「コタンコロカムイ」がお出迎え

 

 

入口には、村を守る神様として扱われていた「コタンコロカムイ(シマフクロウ)」をかたどったオブジェがあります。

 

 

こちらは飛んでいるコタンコロカムイでしょうか。ちなみにアイヌ民話には、洞窟に住み、片翼約7里(約30km)という巨鳥「フリカムイ」の伝説もあります。

巨鳥の伝説は世界各地にあるものですが、それだけ当時の人々にとって空を飛ぶ鳥というのは摩訶不思議でスケールの大きなものに見えたのでしょうね。

 

 

中に入ると、まずアイヌに伝わる弦楽器「トンコリ」をモデルとした木彫工芸作品「ポロ トンコリ」が展示されています。

本来の「トンコリ」が両手で持つ程度のサイズであるのに対して、「ポロ」が「大きい」の意味です。確かにこのサイズは大迫力です!

展示室はスロープを下った先にあります

 

 

下階へのスロープの途中にも展示があります。生活道具などの展示は他の施設にももちろんありますが、こうした仕掛け罠の展示は珍しいかもしれません。

 

 

こちらの「タマサイ」については、アイヌの文化を理解するにあたって特徴的なアイテムなのだとか。というのも、石、金属、ガラス玉など複数の素材が複合された製品であり、さらに石やガラスの先につける、この写真では円形の金属の板がつけられている部分ですが、ここには様々なものがつけられていたのだそう。

これらの材料は自分たちで集めたものの他に、日本を含め、外国・他の部族などとの交易によって得られた素材が使われ、金属板のほか、外国の硬貨などがつけられていたものもあったのだそうです。

彼らは、自分たちで作れるものは当然作りますが、交易によって得られた製品を積極的に取り入れていたのだということですね。

このような背景を考えると、服飾品や生活に使っていた道具ももちろんある程度の傾向はあるのですが、たとえば地域ごとに、あるいは集団ごとに、どのような相手と交易をしていたかによって、一見するとまったく異なる文化のアイテムに見えるようなものもありそうです。

 

 

こちらは「イケマ」の根とのこと。イケマはキョウチクトウ科ガガイモ亜科の植物で、アイヌ語で「イ・ケマ」といい、「それの足」という意味なのだそうで、この「それ」というのはカムイのことを指しているのではないかとされています。

呪術用に使われたほか、食用にも用いられたようですが、全草にシナンコトキシンという有毒物質(アルカロイド)が含まれており、重症の場合は痙攣・嘔吐などの中毒症状が起こるとのこと。

焼いたり煮たりして食べていたとのことで、毒のある植物を熱分解で毒成分を破壊して食べるという意味では、救荒植物として位置づけられるヒガンバナなどと近いエピソード性を感じますね(毒成分は異なりますが)。

この「食べていた」というのが、「山野にあり、適切に処理すれば食べられるもの」と位置づけられていたのか、あるいは「どうしても食べるものがないときにはイケマも食べられる」という位置づけだったのか…

どちらかといえば、魔除けや呪術用、あるいは漢方では「午皮消根」と呼ばれる生薬であることから、薬用としての用途が中心だったのかなとも思えます。

もう少し詳細に調べてみたいところです。

 

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展示室内部の資料点数も豊富!

 

 

さて、スロープを下って右側に行くと展示室があります。(展示室のみ有料)
展示室に入ると、まず職人の手によって再現された衣装の展示があります。この展示物は、ハンガーを動かして観覧することができ、表面・裏面をじっくり見ることができます。

 

 

こちらは先程の「タマサイ」の一種です。菊の御紋!?と驚いていたのですが、やはり日本から輸入されたものであろうとのことです。

 

 

この「メノコイナウ」などの装飾品につけられているのは、コイン(貨幣)です。この展示で見られたのは日本の貨幣でしたが、日本で博覧会が開かれるようになった明治時代以降、本州へアイヌが趣き舞踊などを披露して、海外の貨幣などをもらい持ち帰ったこともあったようです。

 

 

このほか、狩猟に使う道具や

 

 

生活に使う道具

 

 

罠猟のための罠の再現などが展示されています。

 

 

こちらの「チェプウル」は、サケ・マスなどの魚の皮を使って作った衣服です。
展示ご担当の職員の方に教えていただきましたが、注目するべきは袖と裾です。

 

 

日本の着物などとは異なり、脇から袖に向かって細くなっており、また裾はスカートのように広がっています。

袖が細くなっているのは寒い地域の服の特徴(寒い空気が入らないようにするため)であり、裾が広がっているのは「ズボン型」の下衣を着る、やはり北方系の文化の特徴です。

 

 

<よく見ると、魚のヒレがありますね。

 

「北方系」にもいろいろな種類があることは言うまでもありませんが、このチェプウルについては、おそらくサハリン(樺太)アイヌが主に使用していたものだろうとのことでした。

 

ちなみに、魚の皮で作られている衣服の耐久性については、「1年持てばよい」という考え方だったよう。というのも、毎年大量にサケを食料として獲るため、次のサケ漁の際にまた新しいチェプウルを作る、というような考え方だったようですね。アイヌにとってのワンシーズン用ファッションといったところでしょうか。

 

 

丸木舟「チプ」もあります!

 

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サッポロピリカコタンは「体験型」も特徴

 

さて、展示室には魅力的な展示が多数ありましたが、サッポロピリカコタンの魅力はそれだけではありません。

その魅力とは「体験型」であることです。サッポロピリカコタンには様々な「体験型」コンテンツが用意されています。

 

 

展示室内部にある、映像を利用したアイヌ語のコンテンツや

 

 

「アイヌ文様を書いてみよう」のコーナー

 

 

「染色」や「木皮加工」

 

 

展示室手前には、「写真撮影コーナー」もあります。ここでは、アイヌの衣装を着用して写真撮影ができます。希望すれば、弓矢なども持たせてもらえます!

 

 

「レストコーナー」には、「ゴールデンカムイ」のパネルも設置されていました。

 

おわりに

 

「サッポロピリカコタン」のスタンプも館内にあります!

 

札幌市内にも、札幌駅地下にある「Minapa(ミナパ)」など、アイヌ文化の発信を行っている場所が増えました。
「サッポロピリカコタン」は、資料点数も豊富で、かつ体験型コンテンツが用意されていて、お子さま連れで来ているご家族も多くいるなど、非常に学びの多い施設であると感じました。

札幌市中心部から車で30分前後で行けるサッポロピリカコタン、定山渓温泉や小金湯温泉に行く際に立ち寄ってみてはいかがでしょうか!

施設情報

○施設名:札幌市アイヌ文化交流センター(サッポロピリカコタン)
○住所 :〒061-2274 北海道札幌市南区小金湯27
○URL  :https://www.city.sapporo.jp/shimin/pirka-kotan/
○地図 :

 

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【歴史部】<札幌市>石山通をひたすら南へ歩くと何があるのでしょうか!

意外な場所に気になるスポットたちが!

 

こんにちは、えぞまち歴史部です。
特に目的もなく、住宅街を歩き回ってみるというのもときには楽しいものです。
何もない場所と思っていても、実は隠れた史跡や碑があったりします。
今回えぞまちでは、たまたま用事があって出かけていた中央図書館から、石山通をひたすら南へ下ってみるという、特に目的のない散歩をしてみました。

 

今回歩いた散歩ルートは、
石山通駅から、まっすぐ石山通を南に進み、豊平川を渡って渡船場跡へ、そのあと豊平川沿いを北上して馬の渡し渡船場跡へ、藻岩橋を渡って石山通へ戻りました。

 

総工程6kmの散歩でした!

 

 

歩いていると、いろいろなスポットを見つけることができました!

 

第一のスポット「藻岩犠牲者の碑」

 

 

まず最初にたどり着いたのは、「藻岩犠牲者の碑」です。
南警察署からもう少し進んだところにある、「山鼻川橋」のところに、小さな広場のようになっている場所があり、鉄塔の近くに像が立っているのを見つけて立ち寄りました。

 

 

 

 

この碑はなんの碑かというと、北電藻岩発電所と、札幌市藻岩浄水場の建設工事の際の犠牲者を悼んで建てられた碑のようです。
発電所・浄水場の建設工事は1934年に着工され、1936年に発電所、1937年に浄水場が完成したとのことです。

発電所や浄水場といった大規模な施設の建設は大きな工事で、経済的にも、また当時の市民にも大切なインフラの整備となったはずです。しかしこの碑の中で気になったのは、以下の文言でした。

”発電所では、タコ部屋、信用部屋、「通い」の労働者等およそ四千名が従事”
”これら労働者の多くは、全国各地で生活に窮していた日本人であり、日本の植民地支配によって遥か異郷の地に渡って来ざるを得なかった朝鮮人でした。”
”周旋屋に騙されてタコ部屋に売られ、過酷な労働を強いられた人々が数多くいました。”

周旋屋というのは、いわゆる「職業斡旋業者」や「仲介業者」といった意味ですね。ちょっと違いますが、現代で言うところの人材派遣会社に近い概念といえるかもしれません。

周旋屋・会社に騙されて過酷な労働に従事させられる…というのは、まぁ現代の職業でもないことはないと思うのですが、それより、似たようなエピソードとして私は、小林多喜二の小説「蟹工船」の話を思い出しました。

蟹工船はもともとプロレタリア文学のお手本のような、ちょっと思想が強い作品ではあるのですが、大資本を持つ巨大企業が大規模な工事を受注して、下請けに人員確保を丸投げし、末端で働く労働者は周旋屋によって集められた貧困層の日雇い労働者で…という構図は、現代でも通じるところがあるかもしれません。

 

 

政治思想はともかくとして、こうした犠牲者を悼む碑があることで、私たちが日々利用しているインフラは、顔も見たことがない「誰か」の犠牲の上に成り立っていることを実感させられますね。

 

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第二のスポット「殉職者之碑」

 

 

こちらも第一のスポット「藻岩犠牲者の碑」と関連するといえるかもしれません。
この「殉職者之碑」は、南32条西11丁目、上山鼻神社の近くにぽつんと存在している碑です。

 

 

 

 

 

碑そのものには特に説明文などはありませんでしたが、後に調べてみると、北海道電力株式会社の殉職者慰霊碑として建立されたものであることがわかりました。


電力という大きなエネルギーを扱う事業を行う会社においては、やはり様々な場面で「殉職」が発生してしまうものなのでしょう。

改めて電気を日常生活で利用するというのは、本来は並大抵のことではないのだなという思いに至りました。

 

第三のスポット「渡船場跡」

 

 

さて、先の「殉職者之碑」からさらに南へ進み、豊平川にかかる「藻岩上の橋」のたもとにある「渡船場跡」です。

 

 

 

この場所は、パネルの説明によると昭和9年(1934年)までは渡船場があった場所だということですね。

ここより北にある「藻岩橋」には、このあと紹介する「馬の渡し渡船場」があったのですが、その「馬の渡し渡船場」が洪水で使用不能となった際にこの場所に渡船場が建設されたということですね。

実はここを歩いていたときに改めて感じたのが「橋」の重要性です。
このあたりで、真駒内側と藻岩側とが完全に豊平川で隔てられているのですが、先に触れた「藻岩橋」が、車がどんどん通る大きめの橋です。(真駒内通)それ以外の場所では、この「藻岩上の橋」だけが、豊平川を渡ることができる橋となっているのです。つまり…対岸に行けない!ということですね。

豊平川を渡るための労苦は昔の札幌の人々共通の悩みでした。川があることで人もモノも運ぶのが大変だったわけですね。架橋しては流され、また架橋して…ということが繰り返されてきたことでしょう。架橋技術が未発達だったり、素材の調達が難しかった時代には、橋をかけるより簡便に川を渡る手段といえば、やはり船しかなかったのでしょうね。

 

 <現在は公園になっています!!



第四のスポット「馬の渡し渡船場」

 

先の「渡船場」から少し北に行くと、「藻岩上の橋」より橋幅の広い「藻岩橋」があります。そのたもとにあるのが「馬の渡し渡船場跡」です。

 

 

 

この場所は、大正初期まで「馬を渡す」目的の渡船場が置かれていたとのことです。石山~藻岩(山鼻)~真駒内までのルートにおける豊平川を渡るための渡場だったようです。

石山では軟石(札幌軟石)が採取されていましたし、真駒内では「種畜場(牧牛場)」が開かれていたことから、モノを運ぶために馬が必須だったわけですね。これも大切な真駒内のルーツですね。

 

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第五のスポット「みゆき通り」

 

さて、「藻岩橋」を渡って、また真駒内側から藻岩側に戻ります。

 

 

戻る途中では、北海道の住宅街には珍しい「地下歩道」がありました。
城下町として栄えた本州の街中には地下歩道があるところも多いのですが…。

 

 

この「地下歩道」を通って、もとのルートに戻ろうとすると、「南35条みゆき公園」にたどり着きました。

 


そして、その公園近くの「街灯」に、気になる表示が…!

 

 

みゆき通り」とあります。一瞬「みゆき」は人の名前かな?と思ってスルーしてしまいそうになったのですが、いや、違う!と思い、カメラを向けました。

 

 

その理由は、「南35条みゆき公園」にある「明治大帝御巡幸之碑」を発見したからです。なるほど、「みゆき通り」=「御幸(御巡幸)」のことか!と気づきました。

 

 

この碑がある公園は、明治14年当時、開発が始まったばかりだった北海道を明治天皇が視察され、この公園近くで休憩をされたというエピソードがあるようです。御巡幸で通られたために「みゆき通り」だったのですね。

 

明治14年、明治天皇の北海道行幸と、明治44年、大正天皇の行啓については、えぞまちで過去に取り上げた「豊平館」の記事でも触れています!

 

www.ezomachi.com

 

おわりに

 

今回の散歩は、特に目的があって歩いていたわけではないのですが、歩き回っているだけでも興味深いものがたくさん見つかりますね。

思いがけず記事のボリュームも普段の倍ほどのテキスト量になってしまいましたが、こうした散歩はやはり辞められないな、と感じた経験でした。

 

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【歴史部】<深川市>深川市の歴史が集約!「深川市 郷土資料館」を訪れました!

深川市の歴史が集約された施設「深川市 郷土資料館」

 

こんにちは、えぞまち歴史部です。

深川市には、「音江環状列石」や「旧鷲田農場事務所」など、様々な史跡があります。

 

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そうした歴史スポット・史跡の現地はそれ自体が魅力的な場所ですが、それらが集約されているのが地域ごとにある「郷土資料館」や「博物館」といった建物です。

 

 

深川市の郷土資料館は、深川市西町にある「生きがい文化センター」の中にあります。
ここには、古代から近・現代にいたるまでの深川市の資料や化石などが集約・展示されています。

 

郷土資料館への通路には「アイヌ語地名」のパネルもあります。

 

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最初に目に入る「化石」の展示

 

 

まず目に入るのが「化石」の展示です。

 

 

壁面に大きく展示されているのは「フカガワクジラ」の化石です。

 

 

およそ500万年前に生息していたとされる、全長約6.3m、「ヒゲクジラ」の一種とされているのだそう。発見されたのは昭和53年のことだそうです!

土器の展示も豊富!

 

 

化石の隣には、出土した土器の展示があります。点数も豊富ですが、大きさ、文様、形状もそれぞれに違いがあることがわかります。

 

 

石鏃や「つまみ」のついたナイフなどはこの年代の遺跡の定番ですね。一緒に展示されている「種子」も興味深いですね。

 

エゾシカは食料としても素材としても重要だったのでしょうね。

音江環状列石のジオラマの展示も!

 

 

えぞまち歴史部で訪れた「音江環状列石」のジオラマ展示もありました。
現地で歩いてみた場所も、上空から俯瞰するとこのような形状になっているのですね。

 

「擦文文化」期の鉄製品の展示も

 

 

続いて、「擦文文化期」と呼ばれる時代の展示があります。

 

 

この時代に入ると、鉄をはじめとした金属製品の遺物が多く見られます。同じスペースにある「炭化米」も興味深いです。

 

アイヌ文化の展示もあります

 

 

近年注目度の高いアイヌ文化に関する展示もあります。

 


千歳市埋蔵文化センターなどにもある「蕨手刀」や、室町時代のものとされる日本刀、江戸時代の合口拵も展示されています。

また、「星兜鉢」や刀はもちろん本州から持ち込まれたものとされていますが、パネルにもあるように、「どのような形で持ち込まれたのか」が大変興味深いですね。
交易によって持ち込まれたと考えるのが従来からある考え方ですが、もしかすると、この遺物が示す鎌倉時代・室町時代、南北朝時代にそれぞれ、当時の権力者の思惑とは関係なく、本州から北海道へ移り住んだ人々が相当数いたのかもしれませんね。

 

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階段を下ると「開拓時代~近代の展示」へ

 

階段を下ると、開拓(屯田)時代~近代の物品が展示されています。

 

 

この内容に至ると、北海道開拓の村や、「つきさっぷ郷土資料館」、「山鼻屯田記念会館」、などでも目にするような、開拓時代から近代・現代に至る物品の数々を見ることができます。

 

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外へ出ると「屯田兵屋」もあります!

 

さて、資料の数々を見て外へ出ると、少し離れた場所に「屯田兵屋」があります。

 

この屯田兵屋は、広島県から入植した「藤原嘉六」氏が使用したものとのこと。

このほか、香川県などをはじめとして22府県から入植してきていたのですね。

 

 

 

屯田兵屋のつくりとしては、「琴似屯田兵村兵屋跡」とほぼ同じつくりですね。

 

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おわりに

開拓時代の深川市もやはり厳しい環境だったのでしょうね。

「深川市 郷土資料館」は、深川市の歴史に関する資料がぎゅっと集約された資料館でした。古代~近代までを一気に学べて、資料の点数も豊富、じっくり見ればあっという間に時間が過ぎてしまいます。
ぜひ深川市を訪れた際には、一度見て回ってみてほしいスポットです。

 

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■施設情報

●施設名:深川市 郷土資料館
●住所 :〒074-0012 北海道深川市西町3−15 生きがい文化センター



●地図 :

 

深川市のその他のスポットもチェックしてくださいね!

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【歴史部】<江別市>江別大火の歴史と「鎮火之碑」について調べてみました

江別市に残る「大火」の歴史を伝える碑

 

 

こんにちは、えぞまち歴史部です。

「火事と喧嘩は江戸の花」という言葉があるように、日本の歴史では大規模な火災との戦いのエピソードが数多くあります。

江戸の町は多くが木造家屋だったこと、家が密集していたり、「長屋」が数多く存在したこともその理由のひとつですね。

火事が「花」とされたのは、威勢のよい江戸っ子と、火事のときに勇敢に火に立ち向かう「火消し」の姿勢への言及といえるでしょう。

町で火事が起こることで、建物の新陳代謝が進んだり、当時の日雇い人夫、特に大工関連の仕事が発生し、それによって「稼いだ金はその日のうちに使う」という「宵越しの銭は持たない」な生活スタイルができたりと、それ自体が文化の一端を担っていた側面もあるでしょう。

そうは言っても、やはり火事というのは悲惨なできごとであることには違いありません。

今回えぞまちでは、江別市にある火災の記録、「江別大火」の「鎮火之碑」を訪れ、あわせて江別大火の歴史について調べてみました。

 

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「鎮火之碑」は昭和28年の「江別大火」を伝える碑

 

江別大火の歴史を伝える碑が、江別市3条3丁目にある「中央児童公園」の中にあります。

 



この「鎮火之碑」は、昭和28年(1953年)5月23日に発生した大火災を伝えている碑です。

この江別大火は、この公園がある3条3丁目付近から出火し、瞬間風速20メートル近かったともいわれる強風に煽られた炎が、周辺を包み込みました。

 

この「江別大火」の際には、出火地点周辺に防火用水の設備がなかったことや、防火建築の家屋が少なかったこと、そして強風という悪条件が重なってしまい、建物227戸が焼失するという大きな被害が発生したと伝わっています。

 

旧町村農場、「江別昭和の写真展」でも写真が見られます。

この経験から、江別市の消防体制は強化されてきたのです。

 

 

「鎮火之碑」裏面には、建立された日と発起人の名前、そして江別大火の日付が刻まれていますね。

 

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もうひとつの「江別大火」

 

実は江別市では、この昭和28年の火災よりさらに以前・明治時代に、大きな火災に見舞われた経験があります。

それが明治30年(1897年)の8月12日に発生した、現在の条丁目地区にあった旅館から発生した大火です。

このときは、いまだ江別駅前の市街地が形成され始めたころであり、もちろん先の昭和28年に発生した江別大火のころよりも、市街地の規模は小さいものでした。

そのような街の「形成期」に発生した明治時代の「江別大火」は、当時の市街地130戸の建物のうち、105戸を焼尽させ、焼け残ったのは駅前の10数戸のみであったと伝えられています。

なお、このときの火災においても、やはり強風に煽られた炎が建物を襲ったとの記録があるようです。

明治30年の大火を受けて、当時の人々は火災への備えを進め、翌明治31年には、公設江別消防組が発足、江別市消防のはじまりとなったとされています。

さらに、大火が発生したことによって「街路の拡張」が行われました。延焼を防ぐための施策ということですね。

大火前は5間(1間=6尺=1.8182m)であった街路幅を、6間に広げました。
明治30年8月22日の「戸長引継演述書」には、

 

道路沿地主ノ承認ヲ得 則チ各地主ヨリ表口三尺 通該地ニ属スル地積寄付可到筈ニテ 路面壱間ツ々停車場通線ヲ除クノ外総テヲ拡張

 

との記述があるようです。

延焼を防ぐための取り組みは、道路幅だけにとどまりませんでした。

道路沿いの家は、道路ギリギリの場所に家を建てていたのが普通だったのですが、これをそれぞれ三尺ずつ下げて建てるよう協議したり、架橋においても、左右幅5間であったものを、

 

各弐間ツツ拡張シ修築の筈ニ有之

(左右各2間ずつ広げる)

 

というような協議もなされたようです。

しかし当時の建物を持つ人々、とくに、お店を持つ人々のほとんどはこれらの案に反対しました。

というのも、とにかく少しでも店を道路に近づけて通行人を呼び込みたいとの思惑があったのです。

こうした反対もあり、敷地前の空間地の確保は理想通りには実現できなかったようです。

当時の商業を営む人々にとっても、通行人の目になるべく留まりたいというのはお店の死活問題ですから、簡単には同意できないというのも理解できますね。

 

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江別の火災との戦いを伝える碑でした。

 

消防技術や防火設備が整備されつつある現代においても、火災の発生はゼロにはなりません。

現代の建物ですら、ひとたび火災が起これば大きな被害が発生するのですから、当時の建物の建築や防火設備では、被害を極限するのはまさに至難だったでしょう。

火災はもちろん発生してほしくない事象ですが、こうして碑が市街地に残っていることで、かつてそのような出来事があったことを知ることができました。

そしてこのような経験を経て、どのような取り組みや警戒が必要であるのかを現代に伝えてくれているように感じますね。

 

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●施設情報

■施設名:「鎮火之碑」※中央児童公園(ふるさと小公園)内
■住所:〒067-0013 北海道江別市3条3丁目17
■地図:

【歴史部】<札幌市>「ゴールデンカムイ」要素もたっぷり!?「つきさっぷ郷土資料館」を訪れました!

なんだろう?と気になっていた「レンガ造りの資料館」

 

 

こんにちは、えぞまち歴史部です。

たまにスマホで地図を見ていると、「こんな場所にこんな施設が…?」と、気になる建物を発見することがありますね。
たいていそのような場合、「まだ他にもあるかもしれない…!」と、止まらなくなってしまうのですが…。

今回えぞまちが訪れたのは、豊平区月寒にある「つきさっぷ郷土資料館」という場所です。

周囲は学校と住宅街なのですが、その中にぽつんとレンガ造りの重厚な建物。周りはポプラ並木で囲まれています。

どうやら月寒(つきさっぷ)の歴史に関する資料館らしい、とのことで、さっそく訪れてみました!

月寒(つきさっぷ)の歴史は日本陸軍と深い関わりがある

 

 

この「つきさっぷ郷土資料館」ですが、もともとは、「旧北部軍司令官官邸」であったとのこと。

 

 

明治29年(1896年)、札幌に第7師団が設置、月寒には歩兵第25連隊が設置されました。

昭和15年(1940年)、北部軍司令官が現在の月寒中学校の場所に置かれ、この「つきさっぷ郷土資料館」には、司令官官邸が置かれました。

戦後、北海道大学の学生寮として使われていました。

1985年からは「つきさっぷ郷土資料館」となった、とのことですね。

 

ちなみに、この札幌におかれた「第7師団」は、話題のアニメ「ゴールデンカムイ」にも登場します。
ただし、鶴見中尉率いる一団は第7師団の「造反組」であるため、本来の第7師団というわけではないですね。

また、劇中では鶴見中尉に従ったのは歩兵第27聯隊とのことなので、この月寒にいた隊とは少しばかり異なります。

 

しかしながら、このつきさっぷ郷土資料館の展示内容について、時代は一緒ですので、「リアルゴールデンカムイ展だ!」という声もあるようです。

 

※こちらの記事もおすすめです!

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さて、実際に中に入ってみましょう。

 

館内展示は迫力満点

 

 

入ってすぐの1Fのエリアには、当時の開拓民の様子や、使用していた道具などの展示があります。「開拓の村」などの展示を見たことがある方には馴染み深い道具の展示ですね。

 

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こちらは狩猟用の「村田銃」です。

この銃は、アニメ「ゴールデンカムイ」では「二瓶鉄造」が使用している銃ですね。

 

もともとこの銃は、旧薩摩藩の村田経芳が開発した銃で、フランス製の「グラース銃(薬莢を金属薬莢用に改造したシャスポー銃)を国産化するべく開発した銃です。

ちなみに開発されたのは1880年(明治13年)のことで、ゴールデンカムイの時代設定である日露戦争終結後の1907年にはすでに旧式化した銃と評価できます。

1894年の日清戦争においては、第一線部隊で使用されていたようですね。

 

個人的には、村田銃の上にある「熊おどし」が気になりました。「直槍(すぐやり)」と読むんですね。「ちょくやり」や「じかやり」ではないようで…。

 

 

この巨大なノコは、開拓の村や、山鼻屯田記念会館でも同様のものが見られます。開拓時代からの標準装備ですね。

 

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階段を登って2Fへ進みます。

 

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2Fは戦時中の展示

 

2Fは、おもに戦時中の装備品などが多く展示されています。

 

 

「サンパチ」と呼ばれてしまうこともある三八式歩兵銃ですが、正式には「さんはちしき」だそうです。ちなみに三八式歩兵銃は戦後、日本国外へ相当数が流出し、アメリカやカナダでは収集家が保存していたり、スポーツライフルとして人気が高いようです。

 

 

こちらは72ミリ砲弾です。これだけの大きさの弾頭が飛んでくると考えるだけで恐ろしいですね。

 

 

こちらは「軍用スキー」です!

ちなみに、日本の軍隊にスキーを普及させる活動を促進した「長岡外史」という方がいるのですが、あだ名がなんと「プロペラ髭」だったそうで…どうやってこの形にしたのだろうといつも悩みます。

 

ja.wikipedia.org

 

本人も、70cmにもなったプロペラ髭を自慢していたそうで…いや、すごいんですけれども。

 

ちなみに(その2)ですが、詳しい方はご存知でしょうが、「バイアスロン」というウィンタースポーツは、「クロスカントリースキー」と「ライフル射撃」を組み合わせた競技です。


このバイアスロンは、スキーで雪原を滑走して、銃で獲物を撃つという狩猟から始まり、その後、ノルウェーでこの技術を雪中戦や森林警備隊の技術として活かそうという試みから軍隊に取り入れられたとされています。

 

 

第二次世界大戦末期、ポツダム宣言受諾後の戦闘停止期間中にロシアが進軍してきたことで戦いとなった、「占守島」や千島列島での戦いに関する展示もありますね。

 

北海道は本州と比べて第二次世界大戦ではあまり話題に登らないのですが、これら千島での戦いのほか、樺太の戦いなど、対ロシア(旧ソ連)との間ではかなり悲惨な戦いを強いられたという経験もあります。

 

 

こちらは、北部軍最後の司令官となった「樋口季一郎」氏の肖像ですね。樋口季一郎氏といえば、第二次世界大戦中に、当時「日独防共協定」として同盟を締結したばかりのドイツに対して、「ユダヤ人追放の前に、彼らに土地を与えよ」と激しく批判したうえ、アメリカへ亡命するユダヤ人の通過を認めるために出国の斡旋をするなどしてドイツから抗議されたという「オトポール事件」が有名です。

 

日本国内でも当時この発言・行動は問題視され、処分を求める声が上がったものの、樋口氏は東條英機中将(当時)に対して、「ヒットラーのお先棒を担いで弱い者苛めすることを正しいと思われますか」と堂々とした態度だったようです。

 

いつの世にもブレない良心を持つ人物というのは存在するものですね。

 

 

さて、他の展示ですが…こちらは「ゴールデンカムイ」にも登場した「月寒あんぱん」。この話題については、また後日えぞまちにて記事化しようと思います。

 

 

このほか、明治~昭和にいたるレトロな物品がまとめて展示されているエリアもあります。こちらはどちらかというと民生品、家庭で使われる物品が多い印象ですね。

 

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おわりに

 

つきさっぷ郷土資料館は、”軍都”つきさっぷの陸軍との関わりと当時の暮らしぶりとの両方を、凄まじい資料点数を眺めながら学べる資料館です。

記事ではそのすべてを解説することはできませんでしたが、ひとつひとつをつぶさに見ていればあっという間に時間が過ぎてしまうほど、興味深い資料が数多くあります。

ゴールデンカムイ好きの方はもちろん、月寒の歴史を心ゆくまで学べる施設です!

施設情報


■施設名:つきさっぷ郷土資料館
■住所 :〒062-0052 北海道札幌市豊平区月寒東2条2丁目3−9
■URL  :https://tsukisappu.info/museum/
■地図 :

 

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【歴史部】<札幌市>中央図書館にある「札幌市埋蔵文化財センター」を訪れました。

札幌市内出土の埋蔵文化財がある「札幌市埋蔵文化財センター」

 

 

こんにちは、えぞまち歴史部です。
現代では多くの人が住む「街」となった札幌市ですが、遠い昔も多くの人々が暮らしていたことがわかるのが埋蔵物ですね。

 

 

 

今回えぞまちでは、札幌中央図書館建物内にある「札幌市埋蔵文化財センター」を訪れました。

 

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札幌市内の遺跡は500箇所以上!

 

札幌市内の遺跡というと、現在多くの人が暮らしているこの街からはあまり想像できないかもしれませんが、実は札幌市内では500箇所以上におよぶ遺跡が確認されています。

 

 

旧琴似川流域で発見された竪穴住居跡については、明治27~28年頃に、新渡戸稲造氏・高畑宜一氏などによって分布図が作られました。

 

 

このころから、知事公館・北大植物園・北区麻布町付近の近辺に竪穴式住居の跡が確認されています。現代では、より多くの遺跡が次々と発見され調査が進められています。

 

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特徴的なN30遺跡

 

 

こちらの土偶は見たことがあるという方も多いかもしれません。これは西区二十四軒4条1丁目付近にある「N30遺跡」で出土したものです。

 

 

この遺跡では、竪穴式住居跡のほか、多量の土器・石器とあわせて土坑墓などが見つかりました。土坑墓の坑底はベンガラが散布されていたとのことで、縄文後期~晩期の埋葬方法や死生観などもうかがえる貴重な遺跡ですね。

 

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その他札幌市内遺跡の出土品も

 

このほか、札幌競馬場に近い地域にある「K39遺跡」から出土した「丸木舟舳先部破片」や、白石区・豊平区で出土した石器類、「アイヌ文化期」と言われる時代に北区から出土した「太刀」なども展示されています。

 

おわりに

 

中央図書館の建物内にある「札幌市埋蔵文化財センター」を今回訪れました。実は訪れる前は、「10分ぐらいで見終わってしまうだろう」と、勝手に広さから見積もっていたのですが、中に入ってみるとかなりの資料の量で、じっくり楽しめます。

札幌市内の遺跡や遺構、出土品を見学し、昔の札幌市の姿に想像を巡らせることができるよい展示室と感じました。

※館内は撮影禁止の展示物が展示されている場合がありますので、ご注意ください。

 

施設情報

■施設名:札幌市埋蔵文化財センター(札幌中央図書館)
■住所 :〒064-0922 北海道札幌市中央区南22条西13丁目1−1
■地図 :

【歴史部】<深川市>北海道開拓のもうひとつの形、「旧鷲田農場事務所」を訪れました。

こんにちは、えぞまち歴史部です。


北海道の歴史のポイントのひとつに、開拓時代があります。

札幌市厚別区にある開拓の村をはじめ、各地に開拓時代の歴史を伝える施設・資料館があり、えぞまちでもこれまでにいくつかをご紹介しています。

 

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※いくつかを抜粋しました。

 

 

今回えぞまちでは、北海道開拓時代の建物のひとつ、深川市にある「旧鷲田農場事務所」の建物を訪れました。

 

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●「北海道開拓」と「華族農場」のカタチ

 

 

さて、「北海道開拓」ということを調べていると、やはり開拓民の苦悩や苦労に関する記述を見かけることが多くあります。


それもそのはず、当時の北海道は一面原野・沼地・森林といった具合で、そこを人の手で開拓していったわけですね。


人数についても、開拓民全体で見れば大勢になりますが、各地区という意味で見ると、数十戸や十数戸といった小規模な開拓民の集団が移住して、そこから少しずつ、重機や交通インフラもない中開拓を進めてきた…というのが、北海道開拓の歴史で一般に語られる内容です。

 

それとは若干異なる趣を持っているのがこの「旧鷲田農場事務所」です。

 

旧鷲田農場事務所は明治43年に着工、3年間をかけて建設されました。

「旧鷲田農場」というからには、鷲田さんという方の農場だったのでしょうが、この鷲田氏は、華族の方でした。

この鷲田氏の華族というご身分と、もう一つのキーワード、「華族農場」という言葉を組み合わせると、この建物の内容にもう少し踏み込むことができます。

 

「華族農場」というのは、明治政府が創設した小作制度的農場です。

その内容は、官有地を無償や低価格で北海道の土地を華族に払い下げる、というもの、そして、その土地を華族が経営する農場とするものです。

こうしてできたのが「華族農場」というわけです。

 

華族農場の目的としては、華族の経済的基盤を支えるという意味合いがあったようですが、北海道開拓の効率性を上げる効果も生みました。


華族農場として格安や無償で取得した「農場予定」の土地に、資本を背景にして大規模に小作農を集めて集中的に派遣し、一気に開拓させ農場化するというわけですね。

広大な北海道の土地を開拓するには、家族単位や小規模な集団による開拓よりは、確かに合理的で効率的な方法です。

ちなみに華族農場についてはこの深川市よりも、空知の雨竜原野が有名です。

この雨竜原野は三条実美公爵・蜂須賀茂韶侯爵・菊亭修季侯爵らが「華族組合農場」として経営していましたが、この農場はのちに失敗し、1891年(明治23年)に解散、その後は個別に小作人を派遣して、小作制の大農場が各地につくられました。

 

そのため、旧鷲田農場事務所が明治43年に着工されたとのことですので、音江の鷲田農場は成功を収めたといってよいのでしょう。

 

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●「旧鷲田農場事務所」の内容と鷲田軍蔵氏のその後

 

「旧鷲田農場事務所」は、深川市音江町にあります。周囲は保育園や住宅街なのですが、車で道を走っていると突然オシャレな建物が現れるので、通りがかりに興味を持った方もいるかもしれませんね。

 

 

白くて美しい姿が印象的です。

 

建築の印象としては和洋折衷なつくりで、開拓の村などでも似た様式を見かけることがありますね。

 

木材としてはカツラやエンジュが使用されているのだそう。

 

 

洋風の「軒蛇腹」「胴蛇腹」が特徴的です。

ファンライト(半円欄間)もおしゃれですね。

 

 

細部までかなりオシャレに作り込まれた建物だなという印象を受けます。

 

この「旧鷲田農場事務所」は大正時代に音江村に売却され、以降は役場や公民館などとして利用されたようです。

 

現在は遺物収蔵庫として利用されているとのことです。

 

ちなみに旧鷲田農場事務所は、鷲田軍蔵氏が農場事務所兼自宅として建設したものなのですが、鷲田軍蔵氏は農場経営の傍ら、音江郵便局の初代局長、村会議員も務めた人物とのことで、音江村・深川市に大きな貢献をした人物であるようですね。

 

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●施設情報


■施設名:旧鷲田農場事務所
■住所 :〒074-0000 北海道深川市音江町2丁目11−38
■URL  :https://www.city.fukagawa.lg.jp/cms/section/gakuspo/ik75k4000000lriq.html
■地図 :

 

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【歴史部】<登別市>登別市出土の土器・石器が集中展示!「のぼりべつ文化交流館 カント・レラ」に行ってきました

登別で出土した土器や石器の展示!「のぼりべつ文化交流館 カント・レラ」

 

こんにちは、えぞまち歴史部です。


北海道白滝遺跡群出土の黒曜石・石器類が国宝指定されるなど、北海道内の歴史にも関心が集まっていると感じます!

 

今回、えぞまちが訪れた北海道登別市は、観光施設としての「のぼりべつクマ牧場」や「登別マリンパークニクス」「登別伊達時代村」などが有名なのですが、実は登別市、伊達市など「噴火湾(内浦湾)周辺」には様々な遺跡が残っており、それらを展示する施設もあります。歴史部としてはそちらも注目したいところです。

 

 

さて、今回えぞまちが訪問したのは、そのうちの一つ、登別市にある「のぼりべつ文化交流館 カント・レラ」という施設です。

 

入り口では縄文人の出迎えが…!?

 

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「のぼりべつ文化交流館 カント・レラ」

 

「のぼりべつ文化交流館 カント・レラ」は、もとは「登別温泉中学校」という学校だったのですが、平成16年に閉校。現在は、登別市内で出土した土器・石器を保管・展示している展示室となっています。

 

受付の土器にはクルミの実が…!

 

 

「火起こし体験」や「シカの角で縫い物体験」などの「体験型学習」もできるようですね。

 

 

こうしてみると、土偶・埴輪・土器、本当にそれぞれ特徴的です。

 

当時の暮らしぶりに関する展示もあります。



 

登別市にある「富岸川右岸遺跡」の再現ジオラマですね。

 

 

登別市と周辺の各遺跡の概要説明もわかりやすくパネル展示してあります。

 

 

土器の欠片を再利用してつくった道具ということですね。確かにヤスリのような小さい工具として使ったと言われれば、そういうものかな…?とも見えるのですが…。

一定の形に加工したということは、やはり何かの意図があってそうしているのでしょう。想像が膨らみます。

 

 

縄文時代の道具の作成プロセスですね!
教科書などの解説ですと、いとも簡単に道具を作っていたかのように感じてしまうのですが、やはり製作途中で失敗したものも多数あるということがわかりますね。当たり前といえば当たり前なのですが。

 

 

何かと話題にのぼる「黒曜石」ですね。
もちろん道具として優れていたということもあるのでしょうが、黒曜石はビジュアルも特徴的なので、単なる「道具」以上の認識があったのではないかなと思います。

 

もちろん、土器の展示も豊富にあります!

 

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こちらは「図書室」です。

 

 

縄文関連の膨大な図書がありますが、その中に、「高室弓生」先生の「縄文物語―わのきなとあぐね」・「ニタイとキナナ」がありました。

 

高室弓生先生の作品は、縄文文化の正確な描写が特徴とされているために、漫画・コミックとして読み応えがあるだけでなく、なんと縄文時代の知識の導入にもなるという作品ですので、このような場に展示されているのだなと納得しました。

 

もちろん、特に知識がなくてもほのぼのとした東北の縄文時代の雰囲気を味わう漫画としても楽しめます!(巻末の「縄文うんちく講座」もおすすめです)

 

高室弓生先生のHPはこちらから

takamuro.lumi-ange.com

 

 

 

出土した土器片の保管室もありました。
こちらは全体を撮影することができなかったのですが、とにかくケースが山積み!という状態で、これらをひとつひとつ精査して展示していくのだな…と考えますと、発掘に従事されている方々のご苦労に頭が下がる思いです。

これらの出土品の精査が進めば、カント・レラの展示に加えられる可能性もありそうなので、後日訪れるとまた展示が充実しているということもありそうで、期待です!

 

2階には閉校となった温泉小学校・温泉中学校の展示

 

2階の展示は、閉校となった「温泉小学校」「温泉中学校」のあゆみが展示されています。

 

 

うーん、この「談話室」の感じ、ノスタルジックです。

 

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屋外では思わぬ体験ができそう?

 

さて、入る際にも気になったのですが、屋外にも家屋が復元されています。

 

 

ここは何かな…?と受付の方にお声がけすると、中に立ち入らせてもらうことができました。

 

 

この場所には、「室蘭登別たたらの会」さんの看板があり、「古代の製鉄法 たたら吹き実演」の文字が…!み、見たかった…!

 

おわりに

 

 

「のぼりべつ文化交流館 カント・レラ」、決して「観光向け」に整備された場所ではありませんが、縄文・考古学に関心のある方にとっては大満足の施設と思います。

資料数や展示数も数多くあり、これだけ見てまわっても、「もっと見たい!」と思わせられるほどでした。

今後、展示が変更になったり追加されたりした際には、ぜひまた訪れてみたいと思います。

●施設情報

 

■施設名:のぼりべつ文化交流館 カント・レラ
■住所 :〒059-0551 北海道登別市登別温泉町123
■URL  :https://www.city.noboribetsu.lg.jp/docs/kantorera/
■地図 :

 

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【歴史部】<白老町>”陣屋跡”はなぜできた?「仙台藩白老元陣屋資料館」を見学してきました!

こんにちは、えぞまち歴史部です。
先日、白老町にある「仙台藩白老陣屋跡」を見学してきた記事を公開しました。

 

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今回の記事では、同じ敷地内にある「仙台藩白老元陣屋資料館」についても合わせて見学してきましたので、その内容をご紹介します!

 

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■仙台藩白老元陣屋資料館

 

 

仙台藩白老元陣屋資料館は、先に触れた仙台藩白老陣屋跡の内曲輪に近い場所に位置しています。

 

 

さっそく内部へ…

 

 

中へ入ると、さっそく仙台藩の武士たちの甲冑が展示されていました。

 

 

三日月が特徴的な「弦月形前立」は、伊達政宗で有名ですね。

 

 

この「九曜」の家紋は、仙台藩の伊達氏の家紋となっていますね。
九曜にも、「離れ」がある「細川九曜」や、保科氏・会津松平家の西郷氏に使われている「角九曜」など、いろいろなバリエーションがあるのですが、伊達氏の「丸に九曜」は比較的オーソドックスなバージョンですね。

 

 

入り口では、エゾシカとヒグマが出迎えてくれます。

 

 

資料館の展示内容は、まず、この白老の地になぜ仙台藩士たちが駐留することになったのかについて、パネルを交えて説明があります。

 

 

先の記事でも触れましたが、この地に仙台藩士が駐留することになった理由としては、やはりロシアの脅威が大きかったわけです。

 

 

奥に進みますと、仙台藩士についての展示があります。また、当時の白老の様子や、いかに陣屋が築かれたのかについての展示へと進みます。

 

 

この白老陣屋が築かれるにあたっては、仙台藩士の努力があったことはもちろん、地元のアイヌの人々にも力を借りて、超突貫工事で築かれた旨が解説されています。

 

 

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当時、白老陣屋に送られた兵器も展示されていました。目を引くのは、中央に置かれた大砲(大筒)ですね。とはいえ、この大砲は当時としてもすでにかなり旧式化した前装式の鋳造砲でした。当時のロシアやアメリカ・イギリスとの戦いがもし起こっていたら、どの程度活躍したかは未知数ですが、やはり当時の情勢を考えると、「どのような兵器を配置するか」よりも、「配置したこと」そのものが重要だったのでしょう。

 

 

他にも、当時の藩士が使用していた槍・鉄砲なども展示されています。

 

 

白老陣屋に仙台藩士が駐留することになったことで、これまでよりもさらにアイヌとの交流があったことが絵巻から読み取れますね。「イオマンテ(熊送り)」の儀式の様子も描かれていますね。

 

 

こちらは、当時の北海道をどのように各藩が「分治」していたかを色分けして示した地図です。
仙台藩は白老~襟裳までと釧路周辺を「領地」として、十勝・厚岸~根室以東を「警衛地」とされていたようですね。

 

陣屋の全容を模したジオラマもあります

 

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その後、白老陣屋は唐突に役割を終えることになります。幕府政治の終焉と大政奉還、その後の戊辰戦争によって、仙台藩が「逆賊」の扱いを受けてしまったことによります。当時、国元を離れ遠い蝦夷地に派遣されていた白老の仙台藩士の焦燥は推して知るべしといったところでしょうか。白老の陣屋に対しても函館から新政府軍の追討軍が派遣されるに至り、追討軍が到着する前に撤退することとなった旨の解説があります。

 

 

館内にはその他、仙台藩そのものに関する展示や、伊達家に関する展示、また、仙台藩の中級武士で、蝦夷地警護の責任者として活躍した「三好監物(清房)」に関する展示があります。

 

■おわりに

 

 

幕府や国の論理として、ロシア・アメリカ・イギリスなどの列強に対して日本の国土を守りたいという理屈はその通りだと思いますが、個々の仙台藩士にとってみれば、やはり国元を離れて当時開拓も充分でない北海道(蝦夷地)へ派遣されて、何もない場所に陣屋を築いてそこに駐屯する、というのは尋常なことではなかったでしょう。そして、それだけの苦労をかけた陣屋も、統治体制の変革によってすべて手放さなければならなくなったというのは、それぞれに無念もあったことでしょうね。ここ、「仙台藩白老元陣屋資料館」では、そんな仙台藩と白老の歴史の一端に触れることができました。

 

●施設情報

 

 

■施設名:仙台藩白老元陣屋資料館
■住所 :〒059-0912 北海道白老郡白老町陣屋町681−4
■リンク :http://www.town.shiraoi.hokkaido.jp/docs/2020062800019/
■地図 :

 

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【歴史部】<白老町>幕末北方警備の拠点 「仙台藩白老陣屋跡」の歴史を訪ねてきました!

幕末北海道と仙台藩の関係!「仙台藩白老陣屋跡」

 

 

こんにちは、えぞまち歴史部です。北海道の歴史の中でも、幕末の時代は大きな転換点となったことは間違いないでしょう。

といっても、有名な榎本武揚や土方歳三は箱館戦争で戦っており、幕末の北海道史はやはり函館を中心とした道南がメインという印象を受けます。しかし、幕末に北海道内にいたのは五稜郭で戦った榎本の勢力だけではありません。

今回えぞまちでは、外国勢力に対して、北海道警備のために仙台藩から派遣された藩士が拠点としていた、「仙台藩白老陣屋跡」を訪れてきました。

 

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「仙台藩白老陣屋跡」とは?

 

「仙台藩白老陣屋跡」は、白老郡白老町にある国指定史跡です。陣屋は現代で言うところの「駐屯地」、あるいは「駐在所」の意味合いですね。本来は役人が駐在する場所、という意味なので、厳密に言うと「お城」とは異なるのですが、統治の中心地という意味で城も近い概念です。

本拠地の藩に「奉行所」があり、北海道の警固地に飛び地としての「陣屋」を築く、と考えると理解しやすいでしょう。

 

なぜ白老に仙台藩が陣屋を築いたのか?

この陣屋が築かれたのは1856年のことです。なぜ北海道(蝦夷地)の警備であるのに、「松前藩」ではないのかというと、当時の北海道を取り巻く情勢にその理由を見出すことができます。

 

1854年、日本はアメリカと日米和親条約を結びました。その後イギリス・ロシア・オランダとも同様に和親条約を締結したわけですが、条約相手のひとつであったロシアは

「南下政策」を採っていました。ロシアが南下政策を採っていたのは、「不凍港(年間を通して凍結することのない港)の獲得を求めていたためです。

和親条約締結以前には、1807年にロシア海軍士官が択捉島・礼文島・樺太南端の留多加郡を襲撃した事件がありました。

 

また歴史が進むと、1861年にはロシアの軍艦が対馬近海に突如居座って、上陸を求めたり物資を求めた「ポサドニック号事件」も発生しています。

 

つまり、当時の海外勢力の中で幕府はロシアに最大限警戒しており、その懸念は経験上からも、また後の歴史を見ても、正しいものだったといえますね。

 

さらに北海道は、強力な南下政策をとるロシアに加えて、アメリカが捕鯨のための

中継基地を求めてきたり、イギリスが薪水の補給を求めてきたりといった情勢でした。

 

このような状態の中で、幕府は従前から北海道の統治を行っている松前藩に加えて、東北(奥羽)諸藩にも蝦夷地警固のための出兵を命じました。

 

仙台藩は、白老・襟裳岬・国後島・択捉島までの範囲を守備範囲としており、その拠点となる陣屋を白老に築いたというわけです

 

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白老元陣屋跡を見学!


白老元陣屋の入り口にたどり着くと、まずは大きな土塁が出迎えてくれます。

厚みのある土塁なので、大砲の砲弾が着弾しても被害を極限できるようにしてあるのですね。

 


石垣ではなく土塁であることも加わって、函館・五稜郭の稜堡に似ていますね。

 

 

「御門」から中に入ると、「長屋跡」があります。

 

 

パネルの説明にもありますが、曲輪の西側には小川が流れていて、この小川をそのまま堀として活用したようで、天然の地形を活用した陣屋だったのですね。

 

このエリアは「外曲輪」で、御門を入ってすぐの場所にある「四番長屋」は「大筒方」、つまり大砲の砲手ですね。目付・医師・貝吹がいる「三番長屋」は、外曲輪の中でも内曲輪寄りに配置されています。

 

 

その奥には、堀を挟んで詰御門、その先に内曲輪があります。

 

 

まず内曲輪の中心付近には「本陣」があります。

本陣はわずかに高くなっていました。

 

 

内曲輪の土塁の側には「兵具蔵」「穀蔵」があり、「勘定所」や「厠」がありますね。

このあたりも駐在するには大切な施設です。

 

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曲輪の西側には、「鹽竈神社(塩竈神社)」、東側には「愛宕神社」があります。

塩竈は塩竈市の塩竈神社を勧請してお祀りしていたのですね。

飛行機もなく、北海道開拓もほとんど進んでいない当時ですから、仙台から蝦夷地へ派遣されるというのは、やはり心細いものだったでしょうね。

 

 

塩竈神社は、少し小高い丘の上にあります。

先に触れた、堀に活用された西の小川も見下ろすことができます。

 

 

石灯籠に刻まれている日付は…なんと「文久元」年!(1861年)

 

 

小さなお社でしたが、なんとも味わい深い佇まいです。

 

 

内曲輪からもう少し先に進むと、「仙台藩元陣屋資料館」があります。

こちらも見学してきましたので、後日別の記事として公開します。

お楽しみに!

 

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●施設情報

 

■施設名:白老仙台藩陣屋跡
■住所:〒059-0912 北海道白老郡白老町陣屋町681
■地図:

 

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【歴史部】<札幌市>中央図書館で実施中、「札幌市制の100年」特別展を見てきました!(2022年12月13日まで)

札幌市制の100年展!

 

 

こんにちは、えぞまち歴史部です。えぞまちは札幌市に拠点をおいて活動していますが、自分の暮らす街の歴史というのをたくさんの資料をもとに学んでいくのはとても楽しいものですね。

 

今回「えぞまち」では、札幌市中央区にある「中央図書館」内、「図書資料展示室」で2022年12月13日まで行われている「札幌市制の100年」特別展を見てきました。

 

札幌市は2022年で「100年記念」!

 

札幌市は、現在では北海道の中心的な都市として機能しています。せっかくなので、札幌「市」になる前の札幌の歴史についても少しだけ触れたいと思います。

これは明治政府によって開拓使が設置された明治2年(1869年)に、島義勇によって札幌本府(中心市街地)がおかれたことが由来となっています。

 

島義勇の構想では、現在の大通公園のエリアを中心として、北に官庁街、南側に商業地を置くというもので、やや形は変わりつつも、おおむね現在もそのような街並みになっていますね。

 

このときはまだ、札幌は「石狩国札幌郡」という、「11国86郡」の制度でした。

札幌の呼称が次に変わったのは1882年のことで、「三県一局時代」となり、北海道は「函館県・札幌県・根室県」の3県に分かれました。そして1899年には「北海道区制」が施行され、ここで札幌は「札幌区」となりました。実はこの「札幌区」の呼称は、1879年の「郡区町村編制法」によって札幌市街地が札幌区と呼ばれた時代もあったのですが、このときは単に地域を統括する「札幌区」という名前の行政区画のことで、現在の「市区町村」というような地方自治体としての呼び名の「札幌区」ではなかったのです(ややこしいですね)。

 

1920年には、日本で初の国勢調査が行われ、札幌区の人口は102,580人となりました。

その2年後となる1922年、札幌区に「市制」が施行され、「札幌市」となったという経緯です。

 

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「札幌市制の100年」展示内容

 

 

さて、中央図書館 図書資料展示室で行われている「札幌市制の100年」展示についてですが、「100年」と銘打っているように、札幌市制以降の様々な資料や展示が行われています。

 



展示スペースは広くありませんが、ここに情報がかなり凝縮されているという印象です。

 

 

まず、最初に目に入るのは札幌市の模型(ジオラマ)です。

一棟一棟、再現して作られていて、見ごたえがあります!

 

 

その他の展示では、JR・地下鉄、そして新幹線と、これからも札幌のヒト・モノを運ぶ中心として活躍が期待される「札幌駅」の歴史や…

 

 

旧札幌市街の地図やお店の展示、人口推移の情報…

 

 

「がっかりスポット」などと言われながらも、日々多くの観光客を迎える「時計台」の資料…

 

 

大通公園についての展示もあります!

 

 

展示は「写真撮影OK」なので、ぜひ開催期間中に訪れてみてくださいね。

 

 

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■施設情報・イベント情報

● 施設名 :中央図書館内「図書資料展示室」

●イベント名:「札幌市制の100年」

●施設住所 :〒064-8516 北海道札幌市中央区南22条西13丁目1−1

● 地図  :

 

 

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【歴史部】<深川市>特徴的な遺物が続々出土の「音江環状列石」へ行ってきました!

史跡指定は1956年!音江環状列石

 

こんにちは、えぞまち歴史部です。

北海道の歴史でもいろいろとテーマがあり、縄文、アイヌ、幕末、屯田兵など、

どれをとっても飽きることのないテーマですね!

以前にえぞまちでもテーマにした、続縄文時代の遺跡「フゴッペ洞窟」や、

西崎山環状列石、忍路環状列石、地鎮山環状列石なども興味深い遺構でした。

 

www.ezomachi.com

 

今回「えぞまち」では、深川市にある遺構「音江環状列石」へ行ってきました。

 

音江環状列石とは?

 

音江環状列石は、深川市向陽にある環状列石です。

この場所は、石狩川に面する12号線沿いの丘陵地帯にあります。

12号線沿いに大きな「音江環状列石」の看板が見えます。

この丘は「稲見山」と呼ばれており、環状列石は稲見山の

標高115m前後の場所にあります。

 

 

さすがに本格的な登山装備までは必要ありませんが、

かなり長い階段がありますので、

歩きやすい服装で訪れてくださいね。

 

 

音江環状列石は、1952~1955年に東京大学考古学研究室によって遺構が確認され、

1956年には国指定史跡になっているという、古くから知られる遺構のひとつです。

 

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●音江環状列石の見どころは?

 

音江環状列石の見どころは、特徴的な遺物が出ているということです。

ヒスイ玉や弓、石鏃といった遺物が多数出土しており、

これは音江環状列石の特徴のひとつです。

 


このヒスイ玉や弓などの出土品は縄文時代後期のものとされています。

音江環状列石が墳墓であると考えられた根拠は、

石の下から見つかった穴に「ベンガラ(顔料)」が撒かれていたためです。

ベンガラについては知っている方も多いと思いますが、赤色顔料ですね。

江戸時代にインドから輸入された際に

「ベンガル」から「べんがら」になったようです。

ベンガラは酸化鉄を主成分としているので、

製鉄や金属器との関係を疑いたくなるのですが、

少なくとも赤色顔料のうちベンガラは、古代人の間では神聖視、

あるいは宗教的・呪術的な意味付けがなされていました。


無機顔料としてのベンガラは、約10万年前とされる南アフリカの

ブロンボス洞窟から、ベンガラの製作工房と推定される遺構が

出土しているほか、

スペインのアントン洞窟では約5万年前、ネアンデルタール人が

使用したとされるベンガラ(酸化鉄顔料)が出土しています。

北海道では、千歳の柏台1遺跡と呼ばれる約1万7千万年前(旧石器時代)

の遺跡からもベンガラとみられる遺物が出土しているようですね。

(赤色顔料は太陽信仰に近いものだったのではとする説もあるようですね。)

 

 

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さて、石の配置についてですが、

小樽市の忍路環状列石は、列石が取り囲む平面に砂利が敷き詰められています。

同市地鎮山環状列石も、砂利というほど細かいものではありませんが、

小さめの石が墳墓底面に敷き詰められていたことが特徴的です。

余市町の西崎山環状列石では、周囲に不規則に丸い川原石が散在しています。

 

 

音江環状列石では、”砂利”や”石”というよりは少し大ぶりな岩が

かなり緻密に敷き詰められていて、

先に触れた3つの環状列石とは少し異なった地面の印象を受けました。

(単純に「綺麗に残っていた」というだけの話かもしれませんが…)

 

石や岩の特徴については、もちろん、

「その場でどのような石・岩が採取できるか」

という点が影響するので、

場所によって違った雰囲気となるのは頷けるものですね。

 

確かにこうしてみると明らかに形が違います

また、13基ある環状列石のうち、立石を持つものと持たないもの、

という区分もあるようです。

遺跡北側にある2・3・5・7・9・10号は立石があり、

遺跡南側の11・12・13号は立石がないのだそうです。

 

現代の感覚では、

立石がある(何らかの特徴がある)≒特殊な墳墓ということで、

当時の社会でのリーダー的な人の墳墓であったのでは?

などと勘ぐってみたくもなるのですが、

ヒスイ製の首飾りや漆塗りの弓の一部が残っていたのは

11号、つまり南側の墳墓で、立石のないものであったそう。

単純に結論に飛びつくのは危険ですね。

 

北の縄文(音江環状列石(深川市)) - 環境生活部文化局文化振興課

音江環状列石 文化遺産オンライン

北海道ふかがわ観光サイト| ふかがわの石碑をご紹介します

 

 

 

おわりに

 

音江環状列石の現地の看板の情報によると、墳墓は13基確認されていますが

まだ未発掘のものが30基ほどあるのではないかという予想もあるようです。

今後発掘が進んだ際に、音江環状列石ならではの出土品の理由や、

他の遺跡との違いなどが詳しく判明する部分もあるかもしれませんね。

 

●施設情報


■施設名:音江環状列石
■住所 :〒074-0000 北海道深川市音江町(向陽)
■アクセス:車でのアクセスとなるかと思われますが、

      環状列石入り口の左右は私有地とのことなので、

      訪れた際の駐車は現地の掲示等に従うようにしてください。


■地図 :

 

 

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【歴史部】<札幌市>琴似地区開拓の歴史!琴似屯田兵村兵屋跡 / 琴似屯田兵顕彰碑 / 琴似神社屯田兵屋

琴似地区開拓の歴史を感じる史跡!

 

こんにちは、えぞまち歴史部です。

 



北海道開拓の歴史は、学校の歴史の授業などでも習いますし、歴史スポットも訪れるのですが、やはり大人になってから訪れることでさらにいろいろなことがわかって楽しいですね。

今回は、札幌市西区、琴似地区の開拓の歴史が残る「琴似屯田兵屋」、「琴似屯田兵顕彰碑」、「琴似神社屯田兵屋」を訪れてきました。

 

琴似地区の屯田兵の記録はちょっと特別なんです。

屯田兵の記録は各地に残っていて、それが施設などになっているところも札幌市内にいくつかあります。

なかでも今回訪れた札幌市西区・琴似地区は、明治七年四月に建設された兵村で、明治八年五月に入植した兵村で、ここが「屯田兵制度最初の兵村」なのです。

屯田兵制度がはじまったのが明治六年十二月とありますから、西区琴似地区は本当に屯田兵制度の先駆けだったのですね。

この兵屋跡に入植した屯田兵(清野専次郎氏)は、宮城県亘理郡小堤村からの入植者であったようです。

この「琴似屯田兵村兵屋跡」は、地下鉄琴似駅から徒歩すぐの場所にあります!

 

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国指定史跡 琴似屯田兵村兵屋跡

 

メインの通りから一本裏に入った場所にあるので、若干分かりづらいのですが、目印はあります。

敷地内にはまず、屯田兵屋跡があり…

 

 

内部には、開拓期に使用されていた道具が展示されています。

 

龍吐水…ポンプですね!

馬は軍事だけでなく、生活の面でも活躍していたのでしょうね。

開拓の村などでも目にする開拓民の標準的な道具といった風情ですね。

 

 

また、屯田兵制度の歴史や、琴似屯田兵村のおいたちなどのパネル展示もあります。

 

 

兵屋内部は、開拓民の暮らしぶりがうかがえる内容となっています。

この時代、囲炉裏ひとつで温まるというのはやはり過酷な環境だったでしょうね。

 

 

家の裏手に扉?と思い中に入ってみると…トイレでした!

冬はとんでもない寒さだったのでは…と想像しました。

 

 

兵屋の裏には、「琴似屯田兵村菜園」がありました。

屯田兵は事業としての開拓ももちろん大事だったのですが、屯田兵自身の生活も確保しなければならない立場でした。

そこで家庭菜園で生活の糧を得ていたのですね。

とうきびやじゃがいもは現在でも北海道の名産品ですし、枝豆はそのまま食べるにも、加工して調味料にもできますね。

大根はやはり漬物にして保存食にしていたのでしょうか。

食生活から屯田兵のことを研究してみるのも面白いかなと思っています。

 

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琴似屯田兵顕彰碑

 

琴似屯田兵顕彰碑は、先の琴似屯田兵村兵屋跡から徒歩5分ほどの距離にあります。

「西区琴似二十四軒まちづくりセンター」の隣にある広場に設置されています。

 

 

実はこのまちづくりセンターには「琴似屯田歴史館資料室」があるのですが、残念ながら展示されている曜日が限られていたため、こちらはまた後日訪問します!

さて、顕彰碑のほうですが、ここは琴似屯田兵百年記念碑のほかに、

「陸軍屯田歩兵第一大隊第一中隊本部之趾」
「琴似屯田開村記念碑」
「屯田兵本部趾」
「琴似屯田兵顕彰碑」

と、複数の碑が立ち並んでいます。

 

 

また、案内板には「屯田兵入植当時の琴似」「開拓の歴史のみち」などの情報が掲載されています。

 

琴似神社屯田兵屋

 

こちらは、先の「西区琴似二十四軒まちづくりセンター」の通りを挟んだ向かいにある「琴似神社」です。

この中に、「屯田兵屋跡」があるようで訪れたのですが…さて、境内のいったいどこに…?と、いろいろ探し回ります。

 

手水場がキレイでした

先の顕彰碑エリアに移設された記念塔跡地があります。

囲いは残されています。

神社の方にたずねてみると、行き方を教えてもらえました。

「安全神社」のさらに奥にあったのですね。

 

 

作りは最初にご紹介した琴似屯田兵村兵屋跡の屯田兵屋とそれほど変わりはありませんね。

 

この兵屋は「佐藤喜一郎」氏の兵屋だったようです。

残念ながら、この屯田兵屋は内部の見学はできません。

ですが、この西区琴似エリアは複数の開拓・屯田兵に関する史跡・展示があるため、他の施設を回ったあとにここを訪れてみるのもよいかもしれません。

神社の中にあると、また独特の雰囲気もありますね。

 

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おわりに

 

西区・琴似地区の屯田兵屋は、街中に突然ポツンとあるのであまり知られていないのではないかなと思います。

 

 

しかし、この土地に兵屋跡があると、現在の姿と対比して、この地域も、かつては屯田兵が血の滲む思いで開拓した場所なのだな、と改めて感じさせられますね。

琴似周辺に用事で訪れる機会がある方は、ぜひ一度訪れてみてくださいね。

 

施設情報

■施設名:琴似屯田兵村兵屋跡

■住所:〒063-0812 北海道札幌市西区琴似2条5丁目1−12 国指定史跡琴似屯田兵村兵屋跡

■地図:

 

■施設名:琴似屯田兵顕彰碑

■住所:〒063-0812 北海道札幌市西区琴似2条7丁目1

■地図:

 

■施設名:琴似屯田兵屋(琴似神社)

■住所:〒063-0811 北海道札幌市西区琴似1条7丁目3−46

■地図:

 

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