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【グルメ部】<札幌市>「旧鎌田志ちや」は ”歴史”と"ゆったり時間"を味わえる最高のカフェでした。

こんにちは、えぞまちグルメ部です。


「レトロなカフェ」や「ヴィンテージ風のお店」というのは、根強いファンの人気に支えられてひとつのジャンルとして認知されつつありますね。

 

えぞまちがこれまで訪れたいくつかのお店やカフェにも、レトロな雰囲気やヴィンテージ雑貨などを揃えているところがありました。

 

※こちらの記事もおすすめです!

 

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今回は、札幌市中央区、山鼻エリアにて、一見するとカフェとはわからないかもしれない、しかし素敵な雰囲気を醸し出しているお店を見つけてしまいました!

 

 

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住宅街に突然現れる「レトロな建物」!

 

 

こちらが今回訪れたお店の外観です。

 

 

木造の建物と門構え、そして「志ちや」の表示。つまり質屋さんの建物なのだということが読み取れます。相当歴史がありそうな建物ですよね。

 

 

門に近づいてみると、この建物がカフェであることがわかります。「カフェ」ではなく「カフェー」という表記もよいですね。

 

「カフェー」はもともとフランス語の「café」なのでコーヒーの意味なのですが、17世紀ごろのヨーロッパでの喫茶店を指し、日本では20世紀前半から「社交喫茶」という位置づけだったようです。

 

ちなみに、札幌にあるレストランチェーン「銀座ライオン」の屋号の由来は、1911年に銀座に開店した「カフェー・ライオン」であるとされていて、カフェーは必ずしも喫茶店というわけではなく、食事を出す店、喫茶店、バーなど飲食店のうち幅広い態様をカバーしていた様子がわかりますね。

 

…話が少し逸れてしまいました。

 

一見すると「お店」感はあまりないのですが、恐る恐る玄関へ入ってみます。

 

 

「OPEN」の文字があるので、入って良さそう…中に入って声を掛けてみると、ご店主がお出迎えくださいました。

 

「歴史」と「現代」を感じる店内!

 

 

店内に入ると、まずカウンター席があります。テーブルの木目も美しいですね。

 

 

カウンターに座ると、立派なオーディオ機器とレコードの数々。入店すると素敵なジャズをかけてくださいました。

 

 

くるりと後ろを振り返ると…ギャラリーのような本棚。本のジャンルは建築を中心に、科学技術、美術、そしてジャズに関してや、平和・倫理に関する本なども目立ちました。「本棚はその人を表す」というのはそのとおりですね。

 

 

そんな本棚の中に、1冊のファイルを発見。このファイルは、このお店「旧鎌田志ちや」の建物をリノベーションしてカフェになるまでの歩みなどがスクラップされていました。この建物への深い愛情が感じられる一冊ですね。

 

 

さて、お店の奥には、テーブル席もあります。ここにもレトロな品々が数多く…ついつい色々と眺めてしまいたくなります。

 

 

この日はふらりと寄ったので、メニューは基本的に飲み物のみ。フレンチコーヒーをいただきましたが、酸味がなく深い苦みを味わえる「オトナな味」のコーヒーをゆっくりと楽しめます。

 

なお、あらかじめ予約しておけばフードメニューがいただけることもあるのだとか。詳しくは問い合わせをしてみてくださいね。

 

「志ちや」の蔵がギャラリーに!

 

さてさて、この「旧鎌田志ちや」はお店の外観・内観にも特徴がありますが、それだけではありません。

 

お店の奥には、「志ちや」のころに使われていた「蔵」があります。この日は特に展示などをしていなかったのですが、「見ますか?」と仰られ、中を見せていただけることに…!

 

 

通路を抜けた先には…

 

 

煉瓦づくりの「蔵」…いえ、ギャラリーが!ここは絵画や芸術・美術作品などの展示会が行われるのだそう。この一面煉瓦の壁面に展示する様子は、さぞ見応えがあることでしょう!

 

 

この建物はそもそも、大正13年に質屋として立てられた建造物。建築からは実に80年を越える年月が経っています。

 

つまりこの蔵は、質屋さんが預かった品物を保管しておく蔵だったというわけですね。

 

このような形で新たな役割を与えられた蔵と建物、古い部分も残しつつ、現代まで町を見守っているような感じを受けました。

 

お店の裏側から見ても存在感のある蔵です。

 

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おわりに

 

 

旧鎌田志ちや」は、この山鼻地区の歴史を感じるとともに、レトロな雰囲気の中でゆったりとコーヒーを楽しめる、紛れもない「カフェ」でした。

 

コーヒーを飲んだり、本棚の図書を見せていただいたり、あるいはご店主とお話をされたり、展示会に使ったりと、いろいろな可能性を秘めている建物だなと感じる、素敵な時間を過ごせる場所でした!

 

<※営業状況・定休日等についてはお店へお問い合わせください。

 

施設情報

◯施設名:旧鎌田志ちや
◯住 所:〒064-0810 北海道札幌市中央区南10条西9丁目1−30
◯URL  :http://www.tonden-street.com/
◯地図 :

 

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【歴史部】<苫小牧市>隠された(?)遺構 苫小牧市の「植苗トーチカ」を訪問しました!

こんにちは、えぞまち歴史部です。


歴史遺構には、縄文時代のものやアイヌのもの、開拓時代のものなどがあり、それぞれに違った趣がありますね。

 

そんな中、北海道内でも比較的注目度が高いのに、「歴史スポット」としてあまり大々的に紹介される機会が多くないのが「太平洋戦争時代」の遺構です。

 

えぞまちでは過去に、苫小牧市元町の海岸沿いにある「元町トーチカ」を訪問し、記事にしました。

 

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元町トーチカは、住宅地の只中にあり、特に周りになにかあるわけではないのですが、入口は封鎖されており、中に入ることはできませんでした。

 

しかし、今回訪れたトーチカは…?

 

 

 

苫小牧市植苗にある「植苗トーチカ」

 

さて、先に紹介した「元町トーチカ」の記事でも紹介したのですが、一応「トーチカ」とはなにかについて復習しておきましょう。

 

トーチカというのは主にコンクリートなどで作られた「掩体壕(えんたいごう)」のひとつです。つまり中に兵隊さんが入って、身を守りながら監視したり攻撃をしたりする小陣地ということですね。

 

北海道内には、主にこの苫小牧~勇払~太平洋側の道東各地に、太平洋戦争時代のトーチカが数多く残っています。

 

…なのですが、何らかの事情があるのか、大々的に「遺構」として活用されているとは言い難いですね…。

 

こうした遺構の存在は、歴史的な是非や善悪という視点ではなく、「遺構」として見学場所にしたりといろいろ活用してみてほしいなどと勝手に思っています。

 

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「植苗トーチカ」に潜入…!

 

さて「植苗トーチカ」はどこにあるかというと、苫小牧市植苗、勇払川の北西方面にあります。植苗駅よりは沼ノ端駅方面、ゴルフクラブのすぐ近くですね。

 

ただこの場所、たとえば前回の「元町トーチカ」のように、住宅街の只中にあるわけではなく、大きな道路沿いにあるわけではありません。

 

周辺は草木生い茂る、まさしく森林ですので、夏はまさに藪漕ぎとなってしまうかもしれません。(一応、道らしきものはありますが…)

 

ということで今回は草木に行く手を阻まれない、冬に訪問しました…!(雪漕ぎになりましたが)

 

 

さて、前置きが長くなりましたが、つるつるの凍結&ズボズボ足が埋まる雪道を乗り越えて…とうとう見えてきました!これが「植苗トーチカ」です。

 

 

歩いている側からは小さな窪みに見えたトーチカの中央部分にあるのは「銃眼」。ここから外を覗いたり、射撃したりするわけですね。

 

 

近くに寄ってみると、意外と広いです。というのも、ここは41式山砲という大砲が配備されていたのだとか。ただ、(当然ですが)こちらは入口ではなく、敵が攻めてくる側ということになります。

 

内部は…?

 

さて、トーチカを発見して銃眼を見れただけでも驚きではあったのですが、これだけキレイに残っているトーチカであれば、内部を見てみたい…!と思うのも人情ですよね。

 

そこで、雪山を登って裏側に…裏側に…(腰まで雪に埋まりながら)回りました!

 

 

こちらが裏側(入口)から見た植苗トーチカ。入口は半分ほど雪に埋まってしまっていますが、ここから中を覗けそうです!

 

 

中を覗いてみると…おお!葉っぱがいくらか入り込んでいますが、思ったよりもキレイに残っています。

 

植苗トーチカを含めて、このあたりのトーチカ群が建造されたのは1944年の夏ごろからとのことなので、数年程度の差はあると思うのですが…すでに80年近く経っているとは思えません。

 

さて、内部にスマホを差し込んでみると、先の「銃眼」は正面にぽっかりと見えます。そして手前側には、左右にお部屋があることがわかりますね。

 

 

これがその小部屋。なにか残っているわけではありませんが、どうやら弾薬庫だったようですね。

 

 

さらに内部にスマホを入れて、銃眼の左右上に、ちょっと黒っぽい四角いものが見えるのがわかるでしょうか…これは換気口だったようですね。

 

銃眼(砲眼)のところに実際に山砲が配備されていたとしたら、本当は「駐鋤溝」という溝を掘って大砲を固定するということが行われるようですが、ここにはその痕跡はないようです。

 

実際に使用される前に終戦となったからなのでしょうか。

 

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おわりに

 

さて、今回は苫小牧市の太平洋戦争時の遺構、「植苗トーチカ」に潜入してまいりました。

 

このような遺構がせっかくこれだけキレイに残っているのに、興味のある人しか訪れないというのは本当にもったいないですね。

 

苫小牧市内などの学校では、平和教育の一環としてこれらのトーチカを巡ることもあるようですが、できるだけ活用の方法を見つけてほしいですね。

 

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施設情報

 

◯施設名:植苗トーチカ
◯住 所:苫小牧市植苗(詳細省略)

 

【歴史部】<札幌市>「とよひらふるさと再発見」探訪!定山渓鉄道跡・室蘭街道と豊平発展の歴史

こんにちは、えぞまち歴史部です。


これまでえぞまち歴史部では、特に建物や碑が残っているわけではないものの、街中にある「パネル」にも注目してスポットを訪れてきました。

すでに建物は存在していなくても、その場所にパネルが設置されているというのは趣深いものですね。

さすがに復元した建物を設置するのは難しいと思うのですが、何かしら最新技術と組み合わせて活用してみてほしいなどと勝手なことを思っていたりします。

さて、今回は、豊平区にある複数のパネル「とよひらふるさと再発見」のパネルを巡回してきました。

このうちいくつかは、もうGoogleマップでもわざわざ検索しないと出てこないようになってしまっていたので、これはえぞまちの出番かもしれない!と思い記事にしてみたのです。

 

 

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定山渓鉄道跡(最初の豊平駅)はこんなところに!

 

 

まずはこちら、「定山渓鉄道跡(最初の豊平駅)」のパネル。
このパネル、どこにあるかというと…「東光ストア 豊平店」の外壁に埋め込まれています!※東光ストアさん、懐が深い!

 

定山渓鉄道については、かつての苗穂駅から定山渓までを結ぶ鉄道で、木材・鉱石・石材のほか、温泉を訪れる観光客の輸送にも使われていた鉄道でした。

 

定山渓鉄道については、こちらの記事でより詳しく解説しています!

 

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この定山渓鉄道の中でも、豊平駅は1918年(大正7年)に開設され、(集積駅としての意味での)ターミナル駅として活躍していました。(北海道鉄道東札幌駅・苗穂駅までの乗り入れ、国鉄千歳線経由・札幌駅まで乗り入れ)

 

この場所にあった初代駅舎は1929年(昭和4年)まで利用されていました。駅舎内は、木の椅子が置かれた一般用待合室と、布張りの貴賓用椅子が置かれた待合室との2種類があったそうです。

 

また、1943年(昭和18年)ごろには、月寒東にあった「北部軍防空作戦室」から、豊平駅までの地下道が掘られていたとの証言があるようです。(崩落のため現在は立ち入り不可)

 

開通していたのかは不明ですが、かなり大規模な地下道ですね…!

 

豊平駅前今昔と室蘭街道に豊平発展の歴史が!

 

 

このパネルから36号線側に歩くと、「豊平駅前今昔」という別のパネルがあります。

 

ここでは、豊平駅と豊平地区の繁栄の歴史が記載されています。そして、ここで「室蘭街道」という名前が登場します。

 

室蘭街道」というのは、このパネルにもあるように安政4年(1857年)に開削された、札幌越新道、星置-島松間のルートのこと、開拓時代初期は、現在の札幌市立月寒小学校あたりから札幌第一高等学校近辺~福住を通り、千歳市まで至る「鹿道」と呼ばれた狩猟ルートのひとつでした。

 

このルートは、従来の青森~函館~札幌という「札幌本道」と呼ばれる西洋式馬車道とは別ルートとなる、室蘭~札幌間の現国道36号のルートだったのです。

 

現在の36号ルートで室蘭から北上して札幌に至る、いわば「玄関口」として豊平が発展してきたという歴史、そして時代が進むにつれ、定山渓鉄道や豊平駅がこの豊平の発展を支え、役割を終えたという歴史が、この2枚のパネルをもとに調べると腑に落ちました。

 

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「土木学会選奨土木遺産『弾丸道路(札幌・千歳館道路)』

 

 

その隣には、「土木学会選奨土木遺産『弾丸道路(札幌・千歳館道路)』」というパネルがあります。実はこれも国道36号の歴史に関わるパネルです。

 

このパネルにある「弾丸道路」という言葉は、札幌市豊平から千歳町(当時。現在の千歳市本町)までの間の34.5kmの道路のことを指しています。

 

これは、先のパネルのように「ルートとして確立した」ということが重要なのではなく、「自動車主体の道路」として、戦後始めて北海道に建設された道路である、ということ、そして、たった13ヶ月の工期でアスファルト舗装・凍上対策を施した近代的な道路建設を行った、ということがポイントです。

 

現在ではアスファルト舗装で車が通れる道路が当たり前ですが、こうした本格的な道路が北海道中に血管のように建設されたのは、やはり戦後の大規模な施工がなければ実現不可能だったものなのだなあ、と改めて感じます。当然といえば当然なのですが。

 

「弾丸道路」という言葉の由来には、パネルにあるとおり

 

・米軍の弾丸運搬に使われた道路
・弾丸のような突貫工事だった
・弾丸のように早く走れる

 

という説があるようです。

 

個人的には、2番目か3番目であってほしいとぼんやり感じました。

 

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おわりに

 

今回のパネル探訪は、このようなパネルが残っていてくれてよかった…!としみじみ感じた探訪でした。

 

現在に残る建物がなくても、こうしたパネルの情報を手がかりとして、地域の歴史に思いを馳せる機会が生まれると感じます。

 

…みなさんもパネル探訪、やってみませんか…?

 

施設情報

 

(商業施設にあるパネルを訪れる際は、周囲の方やお店の方へのご配慮をお願いします)

 

施設名「定山渓鉄道跡(最初の豊平駅)」パネル
住所:〒062-0906 北海道札幌市豊平区豊平6条9丁目1−18(東光ストア豊平店 外壁)
地図:

 

施設名「豊平駅前今昔」「弾丸道路」パネル
住所:〒062-0904 北海道札幌市豊平区豊平4条8丁目2(道路上の中洲状の場所にあります)
地図:

【歴史部】<札幌市>山鼻地区開拓の歴史 第2弾!「山鼻兵村開設碑」

こんにちは、えぞまち歴史部です。


札幌にも歴史スポットが数多くありますが、えぞまちでは以前に、「山鼻地区」の屯田兵の歴史を展示している「山鼻屯田記念会館」と「山鼻墓地跡」を訪れ、記事として紹介しました。

 

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この近辺は屯田兵の歴史の中でも、記録や史跡となっている場所が多いなと感じます。

さて今回は山鼻地区の開拓の歴史スポット第2弾として、「山鼻兵村開設碑」について書いてみようと思います。

 

 

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山鼻兵村開設碑

 

 

以前に訪れたこちらの「山鼻屯田記念会館」。1階に飲食店が入っているほか、外観もおしゃれなので目立ちますよね。

 

この建物の斜め向かいに、「山鼻公園」という公園があります。

 

 

この「山鼻公園」は、かつて開拓時代に、山鼻兵村の中隊本部があった場所なのです。ちなみに、山鼻公園の真向かいには「山鼻小学校」がありますが、この「山鼻小学校」は、屯田兵の練兵場のひとつであったようです。

 

現在この場所は、子どもたちが遊ぶ普通の公園のように見えるのですが…

 

 

公園の中央には、「どどーん!」といった効果音が似合いそうな迫力で、「山鼻兵村開設碑(山鼻記念塔)」があります。

 

この碑の正体は…?

 

「碑歴」と書かれたパネルには、山鼻兵村の開設にかかわる歴史が記載されています。

 

 

現在では、公園の周囲は大きな道路があり、マンションが立ち並ぶ住宅街。しかし、当然といえば当然なのですが、山鼻兵村の兵屋が完成した明治9年前後は、「うっ蒼とした原始林と多くの野獣の遠吠えが聞える」という様子だったのですね…!

 

 

こちらは別のパネル。明治9年当時の山鼻地区に入植した屯田兵は240戸との数字が先のパネルにも記載されているのですが、ここには東北諸藩のうち、「青森・秋田・鶴岡・宮城・岩手」の5県から入植したという旨が記載されていますね。

 

また、石碑についても説明があります。やはりというべきかなんというか、石碑は「札幌軟石」製!やはり興味を持って探してみると楽しいですね。

 

※こちらの記事もおすすめです!

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公園の一角には別の「碑」も…!

 

 

さて、公園中央には「山鼻兵村開設碑」が鎮座しているわけなのですが、この公園の石山通側の一角には、ぽつんと別の「碑」があります。

 

この碑は、「赤い靴 はいてた 女の子…」という歌の「女の子」の両親が一時期この山鼻地区に住んでいたというエピソードから建立された「赤い靴 歌碑」。

 

「あの歌、その後女の子はどうなったんだろう…?」
「どうして女の子は、”連れられて行っちゃった”んだろう…?」
と、気になっていたという方も多いのではないでしょうか。

 

この「赤い靴 歌碑」については、過去にえぞまちで訪れ、記事にしています!

 

ぜひこちらも合わせてご覧ください!

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施設情報

施設名:山鼻兵村開設碑(山鼻公園)
住所 :〒064-0914 北海道札幌市中央区南14条西10丁目2
地図 :

 

 

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【歴史部】<札幌市>河畔の静かな公園…かつては大切な「氷池」でした!『精進河畔公園』

 

こんにちは、えぞまち歴史部です。

 

住宅街にある公園は、そこに住む人々が子どもを遊ばせたり憩いの場として整備されることが多いものです。その一方で、かつては何らかの施設であり、それが後年「公園」として整備されたという例も多くあります。

 

今回えぞまちが訪れた「精進河畔公園」も、その中のひとつでした。

 

精進河畔公園とは?

 

さて、今回えぞまちが訪れた「精進河畔公園」は、豊平区中の島2条8丁目にあります。ここから少し北の豊平区水車町7丁目あたりで、豊平川から東に小さな支流が流れます。これが「精進川」です。

 

精進河畔公園は、この精進川のほとりで、すぐ西側には豊平川が流れます。

 

 

精進河畔公園は自然豊かな公園ですので、四季を通して楽しめそうです。

 

 

丸太の階段や、橋も架かっています。

 

 

こちらの切り株には、どんぐりがたくさん保存されていました。エゾリスさんの仕業でしょうか…?それとも子どもが集めたのでしょうかね?

 

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精進川の滝

 

精進川には「」があります。もちろん、山の中にあるような大きなものではありませんが、公園を散策していると爽やかな水音が聞こえてきます。

 

ちなみに…この精進河畔公園の中を流れる精進川は、初秋にはサクラマスの遡上がある場合もあるようです。豊平川の支流であることを考えると、さもありなんというところですね。

 

ところが、この「精進川」という川の名前の成立には、2つの説があり、それがサクラマスの遡上と関わりがあるのです。

 

1つ目の説は、アイヌ語の「オソ(ショ)ウシ」(川尻に滝がある、の意味)から、「お精進」となり、「精進川」となったという説。これもありそうな経緯です。

 

 

そして2つ目の説は、「魚の住まない川」ということから、「精進」で「精進川」となったという説です。豊平川には、崖に滝があり鮭が遡上しなかったことに由来しているようですね。

 

そうすると、当時は魚が遡上してこなかった川に、いつからサクラマスが遡上するようになったのか…興味は尽きません!

 

精進河畔公園の「氷池跡」

 



さて、精進河畔公園を歩いていると、白石・藻岩通り沿いに「氷池跡」の標識が現れます。

 

この精進川と南22条橋周辺のエリアに天然氷を採取する「氷池(ひいけ)」があったとの説明があります。見落としがちですが、かつて氷は家庭でいつでも作れるものではなかったわけですよね。

 

函館にある五稜郭の堀が、かつて氷池として使われた(函館氷)というエピソードを思い出しました。

 

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現在の「氷池」

 



現在は、もちろん「氷池」は必要とされません。そのため現役で稼働している氷池はありません。しかし、精進河畔公園のちょうど中程には、復元された「氷池」があります。

 

 

現在の「氷池」では、鴨さんが優雅に泳いでいました。

 

 

「氷池」の周辺には、現在は使われていないであろう水門の跡がありました。

 

この精進川の水は、平岸地区で盛んであったりんご農家の農業用水として使われたという経緯もあったようです。精進川は氷池・用水路として、地域住民にとって重要な存在であったようですね。

 

おわりに

 

精進河畔公園は、住宅街のすぐそばにある河畔公園です。しかし、公園に一歩足を踏み入れると圧倒的に「自然の中にいる」という実感に包まれる公園でした。

 

川のせせらぎ、氷池の展示、豊かな緑と、日々の疲れを自然の中で癒せるすばらしい公園でした!

 

 

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施設情報


◯施設名:精進河畔公園

◯住 所:〒062-0931 北海道札幌市豊平区中の島2条8丁目2

◯URL  :精進川と天神山ルートのご紹介/札幌市豊平区

◯地 図:

 

 

【歴史部】<江別市>榎本武揚の名前が江別市に!?榎本公園 / 史跡 対雁番屋・駅逓

 

見知った場所でも、よくよく観察すると史跡やスポットになっていることがありますね。

今回えぞまちが訪れたのは、江別市の工場地帯の片隅にある「榎本公園」です。

榎本といえば「あの」榎本武揚、北海道には馴染み深い人物です。

なぜ江別のこの場所に、榎本の名前を冠した公園が存在するのでしょうか…!

 

 

 

江別市に「榎本公園」ができた理由は?

 

「榎本武揚」は、幕末日本や北海道の歴史に関心があれば、目にしたことのある方も多いでしょう。

戊辰戦争において、幕府海軍副総裁を務めた榎本は、江戸開城後も艦隊を新政府軍に引き渡すことを拒み、当時の最新鋭艦「開陽」を筆頭とした艦隊を率いて北上、函館へ降り立ちます。

 

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その後、榎本率いる勢力は新政府軍に敗北してしまいますが、榎本はその後特赦によりふたたび重要な役割を命じられます。それが、北海道内の資源調査でした。

 

1872年の謹慎放免以降は開拓使四等出仕として任官し、道内の鉱山を検査・巡回する任に就きます。

 

函館周辺・八雲町、石狩、空知、十勝、釧路と全道を巡回し、そして榎本は石狩炭田・空知炭田を発見。さらに、石狩川沿いのある場所、土地20万坪の払い下げを受け、「榎本農場」を開きました。

 

この「ある場所」というのが、当時「対雁(ツイシカリ)」と呼ばれていた場所、現在の江別市だったのです。

 

榎本武揚が対雁の地に農場を開いたことを「江別発祥」として、この地に榎本武揚を顕彰する目的で作られた公園となったということですね。

 

実はすぐ近くにも榎本に関わるスポットが!?

 

この「榎本公園」の北側には石狩川が流れています。榎本公園と石狩川を挟んだ対岸には、「篠津養蚕場跡」があります。

 

ここも実は榎本にゆかりのある地で、榎本が ”「シノツ」河口ヨリ、右側直チニ桑樹アリ。(中略)養蚕ノ極所ナリ” と調査した記録があり、榎本がこの地を養蚕場にすると良いのではないかと考えた地です。

 

篠津養蚕場跡(史跡 篠津太養蚕室跡)については、えぞまちで過去に記事で取り上げておりますので、ぜひこちらもご覧ください!

 

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「榎本公園」には何がある?

 

さて、ここまで解説してきたような経緯で公園となったこの場所ですが、内部にはどのようなものがあるのでしょうか。まず目を引くのはこちらでしょう。

 

 

榎本武揚顕彰碑」です。先に解説したような、なぜこの地に榎本武揚を顕彰する碑が建てられているのかという経緯が解説されています。

 

 

ちょっと写真だとわかりにくいのですが、この碑の台座は星型になっています。

 

<函館市の「五稜郭」を思い出しますね。

 

 

 

碑の上の像は馬に乗った榎本です。この馬は「道産子(北海道和種)」であるため、像もその特徴を取り入れ少し小柄な体躯として作られたそうです。

 

 

次に、「対雁百年碑」です。この地には、かつて「対雁神社」がありましたが、昭和46年に社を解体、御神体をこの碑の中に奉置したよ、ということが書かれています。

 

また、対雁村については、明治四年(1871年)に宮城県桶谷領農民二十一戸七十六人が来住し、対雁村となった、という旨が書かれていますね。(後述)

 

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史跡 対雁番屋(津石狩)・駅逓

 

この「榎本公園」には、「対雁」に関わる史跡がもう一つあります。形こそ失われていますが、公園入口にその表示を見ることができます。

 

 

それがこちらの表示「史跡 対雁番屋(津石狩)・駅逓」です。

 

1868年(慶応四年)に、この江別の地に最初に定住した和人が「立花由松」という人物でした(移住したのは慶応三年との説もあります)。

 

この人物は陸奥国北郡横沢村の農民だったそうで、「石狩場所(アイヌと和人との交易所)」の漁場経営者であった「阿部屋」の雇員として移住したようです。立花由松氏はこの地で、鮭漁の納屋守・通行屋・荒地開墾などの業務に就いていたようです。

 

その後、明治四年に宮城県からの入植者七十六人、明治九年には樺太(サハリン)に住む八百五十四人のアイヌが移住させられたとあります。

 

学校や製鋼所、駅逓所、対雁・江別両村戸長役場が置かれたとのことですから、現在の江別市の中でも対雁側の中心地となっていたということですね。

 

しかし、明治十五年に鉄道が開業すると、江別・野幌側に人が移りはじめたほか、十九・二〇年にはコレラが流行し、対雁は衰退。一八年に駅逓所が廃止、十九年には戸長役場と郵便局が移転したとのことです。

 

建物跡などが残っていないのは残念ではありますが、かつてはここが対雁エリアの中心街だったことを知ることができますね。

 

なお、対雁はもともと「津石狩」とも表記されていたそうです。語源としてはアイヌ語の「トイシカリ」:曲がりくねった川 や、「ト・エ・シカリ」:沼がそこで曲がる という説のほか、「トゥエシカリ」:元の石狩川 なのではないかとする説もあるようです。

 

なのでこの表示も、「津石狩」を併記しているのですね。

 

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おわりに

 

公園というと、住宅地の真ん中にあって子どもたちの遊び場になっているようなイメージがあるかもしれませんが、この榎本公園は周辺に民家などはなく、訪れるタイミングにもよるでしょうがほとんど人もいません…。

 

史跡として訪れてもよいですし、自然豊かで静かな場所でもあるので、ゆっくりと散策したり休憩したりするのもよいかもしれませんね。江別市の歴史を知る上ではぜひ抑えておきたいスポットです。

 

施設情報

◯施設名:榎本公園(史跡 対雁番屋・駅逓跡)
◯住 所:〒067-0051 北海道江別市工栄町10−6
◯地 図:

 

【歴史部】<苫小牧市>苫小牧市の海岸にある謎のコンクリート塊…実は大切な遺構「トーチカ」でした!

こんにちは、えぞまち歴史部です。

街中を歩いていると、「あれ?これなんだろう?」と気になるモノが見つかったりしますよね。

たいていは「ま、いっか…」で済ませてしまうことが多いでしょうが、興味を持って調べてみると、予想していなかった歴史と出会える場合があります。

今回「えぞまち」が訪れたのも、知らなければ「これ、なんだろう…?」で素通りしてしまいそうなものでした!

 

 

苫小牧市元町にある「ナゾのコンクリート塊」!?

 

このコンクリート塊はいったい…!?

今回訪れた場所は、苫小牧市元町1丁目、太平洋がすぐそこに見える場所です。

 

この海岸沿いから少し民家側の場所に、突如として「コンクリートの塊」が現れます。

実はこのコンクリート塊の正体は、太平洋戦争時代に築かれた「トーチカ」だったのです!

 

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トーチカとは?

「トーチカ」というのは、普段の生活ではあまり耳にしない用語ですよね。

「トーチカ」は、兵士が隠れる掩体壕の一種、簡単に言えば防御陣地のひとつです。

銃を使うのが一般的になった時代になると、兵士は敵の銃弾から身を隠す場所が必要になりました。

そこで、鉄筋コンクリートで円形や方形の箱をつくり、その中に兵士を隠して防御陣地にしよう!というのがトーチカの目的です。

頑丈な鉄筋コンクリートで作られたトーチカは、銃弾だけではなく、より大きな攻撃力がある大砲などの弾や破片などからも、兵士を守ることができたそうです。

苫小牧市にトーチカが築かれたワケ

では、なぜ苫小牧市に戦争遺構であるトーチカが築かれているのかというところが気になりますよね。

トーチカの役割は、敵の兵士が上陸してきたときに敵が侵攻してくるのを阻止することです。

つまり、苫小牧に敵の兵隊が入ってくるかもしれない!という危機感から建築されたわけですね。

 

そのため、太平洋戦争も末期の末期、いわゆる「本土防衛」のための施策の一環として築かれたものとされています。

 

つまり、アメリカ軍など連合軍が北海道に上陸してくると考えたのでしょうか。あるいは、当時のソ連が念頭にあったのかもしれませんね。(根室市や厚真町など太平洋側の市町村には同様のトーチカ跡が複数あります)

 

 

残念ながら入り口は閉鎖されており、中を見ることはできませんでした。

 

こちらは背中側(入り口の反対側)

 

しかし、長年風雨にさらされていたのにも関わらず、現在でも「トーチカ」の形を保っていることから、やはり頑丈に作られているのだなということはわかります。

 

ちなみに、海側に入り口がないのは「海側から攻撃される」からですね。

 

※元町トーチカは、すぐとなりに民家があります。訪問される際は、民家の敷地に入らないよう、またご迷惑とならないよう注意してください。

 

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苫小牧市「緑が丘公園」にもトーチカが!?

 

札幌方面から苫小牧市に向かう際に見える「展望台」がある公園、「緑ヶ丘公園」は、サッカー場やテニスコートなどがある、市民の憩いの場となっている公園です。

 

※えぞまちでも過去に訪問しています

 

実は、この公園にも「トーチカ」があります。

 

残念ながら、元町トーチカのように全体が露出しているわけではなく、ほとんどが埋没してしまっているのですが、野球場から道路を挟んだ藪の向こうに…

 

 

不自然にコンクリートが露出しています!ここも防御拠点と考えられていたのでしょうか。

こうした遺構も歴史を伝えるものとして、できるだけ保全して見学したりできるようになると良いですね…。

 

※現在の緑ヶ丘公園トーチカは、深い藪の向こうに見える程度です。怪我などの危険がある可能性がありますので、安易に近づくことは推奨しません。

大切な遺構、これからも探っていく予定です!

 

苫小牧市、厚真町など、太平洋沿岸の市町村には、このほかにもいくつかのトーチカ跡が現存しています。

苫小牧市のものも含めて、他のトーチカも今後訪れていこうと思います。

 

施設情報

◯施設名:元町トーチカ
◯住 所:〒053-0804 北海道苫小牧市元町1丁目5
◯地 図:

 

◯施設名:緑ヶ丘公園トーチカ
◯住 所:〒053-0035 北海道苫小牧市高丘
◯地 図:

 

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【歴史部】<札幌市>厚別に残る酪農の歴史とは?「旧出納邸」・「雪印バター誕生の記念館」

 

こんにちは、えぞまち歴史部です。

「北海道の酪農」と言われたとき、現代では十勝・帯広をイメージするでしょうか。あるいは、根釧台地をイメージするという方もいるかもしれません。

しかし、実は札幌にも酪農や乳製品に関する施設や記録は数多く残っています。今回訪れたのは、そんな酪農の歴史が残る札幌市厚別区の「旧出納邸」「雪印バター誕生の記念館」です。

 

 

 

厚別区上野幌に残る2つの酪農の記録

さて、今回訪れた2つの施設は、札幌市厚別区上野幌にあります。実はこの「上野幌」と、同じ厚別区にある「下野幌」、「小野幌」、そして北広島市の「西の里」と江別市の「野幌」は、かつては「野津幌(のつほろ)」と呼ばれていたという歴史があります。この地名の由来はアイヌ語の「ヌプ・オル・オ・ペッ(野の中にある川)」であるといわれています。

この上野幌という地名は、「野津幌川の上手」であるという意味で昭和25年に「上野幌」と名付けられたとされています。

さて、上野幌がまだ野津幌と呼ばれる時代、具体的には大正13年ごろ、この地には一大酪農地帯が広がっていました。その中に建てられていたのが今回訪れた「旧出納邸」です。

 

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特徴的な「マンサード屋根」が目印 「旧出納邸」

 

 

この「旧出納邸」は、上野幌1条5丁目にある「雪印種苗園芸センター」の敷地内にあります。実はこの場所、以前にえぞまちでも訪問しており、敷地内にある「恵庭荘」について記事にしています。

 

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こちらの「旧出納邸」、文字を見たときに「出納」という言葉から、とっさに「お金を出し入れする場所?帳簿を管理する場所だったのかな?」と思ったのですが、実はそうではなく…この場所に「出納」という方が住まわれていた邸宅だったのです。

 

邸宅の主は「出納陽一」氏。建物は大正14年に建てられたものです。出納氏はこの場所で「出納農場」を経営していました。農業において、冷害や凶作の影響が現代よりもダイレクトにあり、かつ深刻だった時代、農業を安定させるためには有畜農業が有効であると考えられました。そこで、この野津幌の周辺一帯を、酪農家が研究・実験をするための場所として活用することになったのです。

 

 

この「旧出納邸」のやや丸みを帯びたように見える屋根は、「マンサード屋根」と呼ばれていて、この建築方法は17世紀のフランスの建築家「フランソワ・マンサール」が考案したとされる屋根です。

この形式の屋根は天井高を大きくしたり、屋根裏部屋を設置したりするのに適している構造なのですが、「マンサード屋根」がこの出納邸に取り入れられたことには、出納氏が酪農経営を学ぶためにデンマークに留学した際に目にしたものをモデルとしているのだとか。

また実はこの時代、「マンサード屋根」の建物は大正時代の札幌では大流行していたようです。

 

ちなみに、マンサード屋根が採用されている現存の建物には、埼玉県秩父郡皆野町にある「親鼻駅」の駅舎があります。また、旧樺太の豊原駅もこの様式だったようですが、現代では採用されていないようですね。

 

残念ながら建物の内部は見学できなかったのですが、この建物のエピソードを詳しく調べるうち、もう一つの建物についても理解が深まりました。

 

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旧出納邸と密接な関わり「雪印バター誕生の記念館」

 

 

先に解説した「旧出納邸」と向い合せのような形で建っているのが「雪印バター誕生の記念館」。こちらも内部は見学できないので外観のみです。

 

先の話に登場した「出納氏」は、この地を酪農の研究のための場所としていたのですが、ここにもう一人の重要な人物が関わってきます。それが「宇都宮仙太郎」という人物でした。

 

宇都宮市は、明治35年に現在の札幌市豊平区菊水の原野に牧場を開き、ホルスタイン種の乳牛20頭あまりを飼育していたのだそう。大正4年には、自分が会長となって、「札幌酪農組合」を結成していました。

 

その後宇都宮氏は上野幌にある出納農場(出納氏)の経営に参画することになり、この地は「宇納農場」となります。

 



こちらは「旧宇納牧場」のサイロです。

 

そして、大正14年から、宇都宮市はこの農場を借りて、バターの工場を作り、「農民のための生産組織」として、「北海道製酪販売組合」を設立し、バターの製造を行うことになりました。

 

翌年には「北海道製酪販売組合連合会」に改組され、工場も東区苗穂地区に移動するのですが、この「北海道製酪販売組合連合会」こそが、ご存知「雪印乳業」の前身となったわけです。

 

 

そのようなわけでこの地には、「雪印バター誕生の記念館」が存在しているというわけです。

 

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おわりに

 

今回は札幌市厚別区の上野幌に、思いがけない形で酪農の歴史が残っていることを発見し訪れました。

施設内部が見学できなかったことは残念でしたが、こうして建物や施設が残っていることで、この地で酪農に情熱を燃やした先人がいたことを学ぶよいきっかけとなりますね。

雪印種苗園芸センターを訪れる祭や、上野幌を訪れる際にはぜひ立ち寄ってみてくださいね。

 

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施設情報

 

◯施設名:旧出納邸・雪印バター誕生の記念館
◯住 所:〒004-0031 北海道札幌市厚別区上野幌1条5丁目1−8
◯URL:https://www.city.sapporo.jp/atsubetsu/gaiyo/konzyaku.html
◯地図 :

 

【歴史部】<当別町>伊達家の足跡が当別町にありました 「当別伊達記念館・伊達邸別館・当別神社」


こんにちは、えぞまち歴史部です。
北海道の歴史については、これまでえぞまちでも様々な時代・地域にわたってご紹介してきました。
そんな中でも、日本の歴史の中で北海道が大きな転換点を迎えるのが幕末~明治にかけての時代です。

こうした明治初期、仙台藩によって開拓が行われたのが、石狩郡当別町。ここ当別町には、仙台藩の開拓民が当別町を開拓した歴史について展示している「当別伊達記念館・伊達邸別館」があります。

 

 

当別開拓の歴史

記念館の内容に入る前に、少しだけ当別開拓の歴史を解説してみます。
当別が「開拓」の対象となったのは、明治元年(1869年)のことです。現在の当別町のある地域一帯が、当時の「北海道石狩国石狩郡」の領域の中に加えられたことで、開拓使の管轄の領域となります。

そして、いよいよ開拓に乗り出したのが明治4年(1871年)4月のこと。この年は、7月に廃藩置県という大きな出来事を挟んだ時期でもありました。「旧」仙台藩 岩出山一門 伊達邦直が、元家臣らとともに当別の開拓に着手できたのが翌明治5年(1872年)のことです。これ以降、同じ伊達家である旧宇和島藩も加わり、当別町の開拓が推し進められました。

明治15年(1882年)には、北海道が「三県一局」の体制となったことで、当別は一度「札幌県」の一部に含まれます。この後、札幌県は北海道庁に統合され、次に「当別」の呼称が用いられるのは明治35年(1902年)のことで、大日本帝国憲法下における北海道の「二級町村制」により、「石狩郡当別村」という呼称になりました。「当別村」の呼称が「当別町」となったのは昭和22年(1947年)の町制施行を行ってからとなります。

 

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当別を目指す伊達家が直面したもの

さて、現代の当別といえば、広々とした農地を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。生花やお米・野菜の生産でも有名です。

しかし、明治4年当時の伊達家が直面したのは、当然ながら広々とした農地などではなく…「昼なお暗い一面の原始林」でした。現代と違い重機も車もないなか、人力で木を切り、場合によっては根を掘り起こしたりして、少しずつ開拓を推し進めていったわけですね。

また度々水害・冷害にも悩まされたという記録があります。

それでも、伊達邦直率いる一団には、当別を開拓しなければならない理由があったのです。

なぜ伊達邦直は北海道を開拓したの?

 

伊達邦直という人についても少し触れておきましょう。伊達邦直は天保5年(1834年)生まれ、陸奥国(陸前国)玉造郡岩出山(現在の宮城県大崎市岩出山)の出身です。19歳で岩出山伊達家10代目を相続した人物です。

伊達邦直が当別を開拓することになるきっかけの出来事は、やはり幕末「戊辰戦争」でした。

このとき、奥羽越列藩同盟に加わっていた仙台藩の命により、伊達邦直も官軍と交戦しています。山形での戦いでは勝利するなど活躍したのですが、やがて官軍の勝利となりました。

戦後には、仙台藩は「賊軍」との汚名を着せられ、禄高を62万石から28万石に減封されました。伊達邦直の「仙台岩出山藩」も、14000石の禄高を、なんと65石に減封され、岩出山城は召し上げ、家臣も士分剥奪となりました。

 

 

侍ではなくなった家臣は「帰農(農民)」を命じられたのですが、伊達邦直はこのままでは家臣が路頭に迷ってしまうと憂い、家財を処分して得た資金をかき集め、新政府が推し進める北海道開拓へ志願、1869年には一度石狩国空知郡の支配を命じられました。しかしこの空知郡の支配は(内陸地であったため)物流などの面で困難を極め失敗してしまいます。

再度開拓に乗り出した1870年には、「厚田郡シップ(現:石狩市厚田区聚富)へ移住しました。しかしこの地は土質が悪く、砂地が多かったために不毛の地で、またもこの地の開拓に失敗します。

当時の開拓長官「東久世通禧」への嘆願により、開拓地を移転することが許されます。そして三度目の挑戦で当別の開拓に取り掛かったのです。

 

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当別伊達記念館・伊達邸別館で見られるもの

少し前置きが長くなってしまいましたが、これで当別の地に伊達家の記念館がある理由がわかりました。

それでは、いよいよ当別伊達記念館・伊達邸別館の内容に移っていきましょう。

当時の伊達家の人々の暮らしが垣間見える展示

 

まず、こちらが展示のある建物です。

 


ここでは、当時の岩出山伊達家の人々の当別での暮らしに関する展示や資料を見ることができます。

 

 

幕末・明治時代に関心のある方々には興味深い展示となるでしょう。

 

 

開拓の様子を版画で示した展示もありました。

当時の邦直公の様子がうかがえる?伊達邸別館

 

続いてこちらは「伊達邸別館」です。

 


明治13年に建築されたものといわれ、来客があった際の宿泊場所として、懇談場所として、そして村政執行のための会議などの場としても活用された建物です。

 

 

内部には会議室・来客控室、そして…

 

 

かなり急な階段を登り、2階も見学することができます。

 

 

2階では、邦直公が奥様と懇談しているところに、部下が報告をしにきた様子が復元されていました。

 

 

記念館の前にあるこの碑には、歌が刻まれています。

 

あそ山の しげる木立を ふみ分けて
住み見し月の 今も替らず

 

邦直公は「桃園」と号した歌人でもあり、厳しい開拓事業の中で、家臣との歌会を唯一の楽しみとしていたのだそう。

ちなみにこの「あそ山」は、阿蘇山(熊本)のことではなくて、街の北にある「阿蘇岩山 (アソ・イワ:アイヌ語で「柴の多い山」)」のことを指しているようです。

当別開拓の歴史は「当別神社」にも!

 

当別伊達記念館・伊達邸別館から徒歩でもすぐの場所に、「当別神社」があります。

 

 

ここにも、「当別村開拓紀功碑」など、伊達邦直の開拓の歴史をうかがい知ることができるスポットがあります。

 

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施設情報

◯施設名:当別伊達記念館・伊達邸別館
◯住 所:北海道石狩郡当別町元町105
◯URL  :https://www.town.tobetsu.hokkaido.jp/soshiki/syakai/39958.html
◯地 図:

 

◯施設名:当別神社
◯住 所:北海道石狩郡当別町元町51−12
◯URL  :https://tobetsujinja.hokkaido.jp/
◯地 図:

 

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【歴史部】<江別市>「屯田兵第三大隊本部跡(火薬庫)」は現存する唯一の”煉瓦造り”な屯田兵施設!

 

こんにちは、えぞまち歴史部です。
江別市というと、小麦製品、上川丸、えべチュンなど魅力がたくさんある場所なのですが…やはり「煉瓦(レンガ)」もその中のひとつに数えないわけにはいきません。

江別市には煉瓦造りの建物がたくさんありますが、今回はその中のひとつ、「屯田兵第三大隊本部跡(火薬庫)」を訪れました!

 

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「屯田兵第三大隊」って?

 

「屯田兵」と一口に言っても、やはり「兵」である以上、屯田兵もまた司令部があり、いくつかの「隊」に分かれていました。

北海道に最初に入植した屯田兵は、1875年(明治8年)の「第一大隊第一中隊」(札幌郡琴似兵村)でした。

 

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札幌郡江別兵村に屯田兵が入植したのは1878年(明治11年)のことで、このときの江別兵村は「第一大隊江別分隊」という扱いでした(10戸)。

その後、1882年(明治15年)には、琴似を第一・第二中隊として、札幌山鼻を第三・第四中隊として再編成されました。

 

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さらにそれから2年後の1884年(明治17年)には琴似を第一中隊、山鼻を第二中隊、江別・篠津を第三中隊に再編成されました。ちなみに、このとき江別の中でも札幌寄りの札幌郡野幌別兵村は、第一大隊第四中隊という扱いでした。

 

後に、1887年(明治20年)、江別・篠津の第一大隊第三中隊が、第三大隊第一中隊に、野幌の第一大隊第四中隊を、第三大隊第二中隊と再編成されました。つまり、江別・篠津・野幌で札幌の大隊から分離され、第三大隊が編成されたということですね。

 

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江別神社にある「屯田兵第三大隊本部跡(火薬庫)」とは?

 

さて、こうして編成された第三大隊ですが、この第三大隊本部は江別市萩が丘、現在の江別小学校のある場所に置かれていました。今回訪れたこの「火薬庫」は、大隊本部の附属施設として明治十九年に建てられたものです。

 

もともとは、現在この火薬庫がある場所に向かって背中側にある江別小学校(現在は跡地)の体育館付近にあったとされていて、周囲には土塁が盛られていたとのこと。やはり火薬庫だからでしょうか。

 

第三大隊はその後明治二十四年に、滝川に本部を置く第二大隊の配属となり、第三大隊本部も役割を終えた後は火薬庫とともに移築されていたのですが、昭和9年、失火で大隊本部は焼失、この火薬庫だけが残ったとのことです。

 

 

この火薬庫は、唯一現存する煉瓦造りの屯田兵関連施設とのこと。移築されたものとはいえ、美しい姿が目を引きます。扉は火薬庫らしさを感じる頑丈そうなつくりですね。

 

 

裏手に回ると窓が見えます。

 

 

軒の部分。レンガが縦と横に組み合わさっていて、これも美しいですね。
(※内部は見学できません。残念!)

 

 

目立たない場所にある史跡ですが、屯田兵施設のひとつとして重要な文化財となっているのです。

●施設情報

◯施設名:屯田兵第三大隊本部跡(火薬庫)

◯住所 :〒067-0071 北海道江別市萩ケ岡17

◯URL  :https://www.city.ebetsu.hokkaido.jp/site/kyouiku/2922.html

◯地図 :

 

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【歴史部】<江別市>江別市指定文化財「千古園」は散策にもぴったり!

こんにちは、えぞまち歴史部です。


北海道には開拓の歴史があり、各地に開拓時代の史跡や資料館などがあります。

 

開拓のために北海道に入植した人々は、もちろん覚悟を持って来たのでしょうが、それでも開拓時代の北海道での生活は過酷きわまるものだったことは色々な記録にも残っています。

 

そんな開拓時代をしのぶ史跡のひとつが、江別市指定文化財「千古園」です。

 

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「千古園」とは?

 

 

千古園は、江別市東野幌にある庭園(住居跡)です。


ここにはもともと、「関屋孫左衛門」という方の屋敷の一部だった場所なのですが、関屋孫左衛門氏は、江別の開拓に貢献した人物で、民間開拓団体「北越殖民社」の社長でした。

 

 

「北越殖民社」という名前は、設立された当時置かれた本社の新潟県長岡町坂ノ上町(旧長岡藩士三島億二郎宅)、「越後」の地に由来しているのでしょう。ちなみに、関屋孫左衛門氏も新潟県刈羽郡新道村の出身です。

 

北越殖民社は、明治19年に北門開拓の理想を持った大橋一蔵氏が率いる越後の農民が江別太に移住して開拓を事業としました。

 

当初は十七戸であった入殖民も、明治23年には400を越えたそうです。

 

その後、関屋孫左衛門氏が2代目社長となり、江別、浦臼、音更に「小作制大農場」をつくり発展してきたという経緯があります。

 

さて、北越殖民社と関屋孫左衛門氏の関係については以上に解説したところですが、時代は進み、大正7年、野幌の人々がこの地の開拓の労苦をしのび、この関屋孫左衛門氏の屋敷の土地の一部に留魂碑や茶室を備えて公園として整備したものです。

 

留魂碑については、関屋孫左衛門氏の徳をしのんで「留魂」と刻んだ碑を設置したもので、氏も大層喜んだのだそうです。

 

「千古園」には何がある?

 

 

こちらが先に解説した「留魂」の碑ですね。

 

 

また、こちらは昭和45年に開拓80年の式典が行われたのちに、昭和47年に「野幌報徳会」によって立てられた碑のようです。

 

 

このほか、園内各所にお地蔵様が並んでいます。

 

 

お地蔵様にはそれぞれ番号がふられているので、散策をしながらお地蔵様めぐりをするのもよいかもしれませんね。

 

 

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こちらは「山口翁頌徳碑」と書いてあります。「山口翁」とは、関屋孫左衛門氏の次男で、1933年に殖民社の社長となった人物、「山口多門次」氏ですね。

 

 

こちらは「土田金蔵」氏の頌徳碑。

土田金蔵氏は、山口氏・関屋氏を補佐した人物です。

 

 

この庵が茶室「道庵」です。関屋孫左衛門氏が晩年、詩作をして過ごされた場所でもあるそう。残念ながら、訪問時は内部は立ち入り禁止となっていました。

 

 

園内は木々が巧みに配置されており、美しい庭園となっています。茶室「道庵」のほかにも東屋があり、散策中に休むこともできます。

 

 

「キタコブシ」をはじめとした、江別市保存樹木も見学することができます。

 

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施設情報

◯施設名:千古園

◯住所 :〒069-0822 北海道江別市 東野幌375番地

◯URL  :https://www.city.ebetsu.hokkaido.jp/soshiki/toshikensetu/3137.html

◯地図 :

 

 

 

【歴史部】<札幌市>「えにわそう」じゃない【恵庭荘】!恵庭岳を見据える旧邸宅。

 

こんにちは、えぞまち歴史部です。


意外な場所に歴史スポットがあるというのは、札幌市の魅力のひとつだと思います。

今回えぞまちが発見したのは、札幌市厚別区にある「雪印種苗園芸センター」内にある歴史スポット、「恵庭荘」です。


残念ながら内部は一般公開されていないため見学できませんが、歴史スポット好きとしては見落とせません!

 

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雪印種苗園芸センターは園芸を行う人には馴染み深い場所!

 

 

今回訪れた「雪印種苗園芸センター」は、札幌市厚別区上野幌にある施設です。
「花と木の直売店」と大きく描かれた斜め屋根が特徴的ですね。


ガーデニングを行う方にとっては、苗や園芸用品を多数扱っている場所なので、馴染み深い場所でしょう。

 

 

また、ガーデニングショップのほか「バラ見本園」もあり、美しく咲いたバラを眺めながら散策することができる庭園となっています。

 

大正~明治まで、邸宅から料亭として使われた「恵庭荘」

 

 

「雪印種苗園芸センター」のすぐ隣(敷地内)には、「恵庭荘」があります。

「えにわそう」ではなく、「けいていそう」ですね。

バラ園からは、遠目に「恵庭荘」の裏手を見ることができます。

 

※残念ながら一般公開されていないため内部は見ることができません。

 

このプレートはどのような経緯で設置されたのでしょうね。


仕切りとなっている柵には、「恵庭岳」の絵が刻まれていました。

 

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恵庭岳を正面に望める「恵庭荘」

 

 

なぜここに「恵庭岳」の絵があるのかというと、この建物の建造にその理由があります。


恵庭荘はもともと、1893年(明治26年)に建築された、札幌市南5条西2丁目にあった呉服商の邸宅でした。このときの邸宅は大正から昭和初期までの間、料亭として使われたのですが、この後、1964年(昭和39年)に、現在の場所(雪印種苗)に迎賓館として移築されました。

 

移築された当時の構想は、「居間から恵庭岳を正面に望める庭園と邸宅」というものでした。だから「恵庭荘」なのでしょうね。

 

現在は高層建築なども多いため、1階の居間から恵庭岳を望むことは難しそうですが、実際に中に入ってみるとどうなのでしょうか…気になりますね。

 

純和風で豪華なつくりは、京都宮大工の手によるものだそう。迎賓館としては理想的だったのでしょうね。

 

 

274号線(平和通)からは、恵庭荘の正面を見ることができます。

純和風なので、四季を通して様々な美しさを見せてくれる邸宅です。

 

雪印種苗園芸センターを訪れた際には、ぜひ立ち寄ってその外観を鑑賞してみてくださいね。

 

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施設情報

施設名:恵庭荘(旧某呉服商住宅)

住所 :〒004-0031 北海道札幌市厚別区上野幌1条5丁目1

URL  :https://www.northerncross.co.jp/bunkashigen/parts/103096.html

地図 :

 

【歴史部】<札幌市>『赤い靴 はいてた 女の子…』童謡「赤い靴」の軌跡が札幌にありました!

記憶に残る童謡「赤い靴」

 

 

こんにちは、えぞまち歴史部です。
赤い靴 はいてた 女の子 異人さんに連れられて 行っちゃった」という童謡、小さい頃に聞いたことがあるという方も多いのではないでしょうか。
この歌は、1922年(大正11年)、野口雨情作詞・本居長世作曲によって発表されました。
冒頭に記載した1番の歌詞が有名で、かつ曲調もどことなく悲愴を感じるようなものであるため、この歌は人々の記憶に残りやすく、「女の子に何があったんだろう?」「どうして異人(※当時の「外国人」)に連れられていってしまったのだろう」「その後、女の子はどうなったのだろう…?」と、様々な感情が巻き起こりますね。

 

…といっても、えぞまちではそこまでこの歌について調べることもなかったのですが、今回偶然にも、北海道・札幌市南14条西にある「山鼻公園」にて、この「赤い靴」と関係のある碑を発見しました。

そこから、「赤い靴」のことを調べてみるとともに、札幌市との関わりについても記事にしてみようと思ったのです。

 

※童謡「赤い靴」の成立には、様々な異論・異説がありますが、この記事ではそのうちの一説について紹介します。

 

童謡「赤い靴」のモデルとされたエピソード

 

そもそも「赤い靴」については、実話を題材として歌詞が作られたという説があります。
つまり、作詞をした野口雨情氏には、この「赤い靴」の歌詞と似通うエピソードを見聞きしたことがあったのではないか?ということですね。

この「赤い靴を履いていた女の子」というのは、「きみ」という名前の少女がモデルとなっているとされており、「きみ」には、「岩崎かよ」という母親がいました。
「岩崎かよ」という女性は静岡県出身の女性ですが、山梨県の紡績工場に働きに出ていました。
かよは18歳であった1902年に妊娠、しかし、父親となるべき男性が「訳あり者」であったために、結婚することなく故郷に戻り、未婚の母として出産しました。
このとき産まれた子が、のちに「赤い靴」のモデルとなる「きみ」でした。

 

なお、かよが名乗っている「岩崎」は、かよの父の姓です。(父:岩崎清右衛門)
「きみ」は、母親の姓である「岩崎」とされている記載もありますが、場合によっては「佐野」とされる例もあります。この「佐野」は誰の姓なのかという疑問が湧いてきますね。
実は「佐野」姓は、きみとは少し関わりが遠く…。

 

かよが5歳のときに、かよの父(岩崎清右衛門)は急死してしまいます。
その後、かよの母が同棲をはじめた男性の姓なのです。(佐野安吉)

 

さて、ともかくも「きみ」を出産した「かよ」ですが、この後山梨県の紡績工場には戻らず、北海道・函館に渡ることとなります。
時代が時代だけに、未婚の母として故郷には居づらかったとの説もありますが、このあたりは諸説ありそうですね。

 

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そして函館に渡った「かよ」は、周囲の勧めもあり、青森県鰺ヶ沢町出身の新聞記者「鈴木志郎」と結婚します。
この「鈴木志郎」という人物は社会主義系新聞の記者であり、留寿都村で「ユートピア建設」を目指す「平民社農場」への参加を志します。
平民社農場というのは、社会主義団体「平民社」のメンバーが設立した農場で、留寿都村・真狩村で1904年から開拓農場の入植を進めていました。
鈴木が留寿都村に入植するにあたり、もちろん、かよ・きみも一緒に行きたかったのでしょうが、それができない事情がありました。

 

というのも、開拓農場への入植というのは過酷きわまる労働で、とても幼子を抱えてできるものではありませんでした。
かよは悩んだ末に、きみを養子に出し、鈴木とともに留寿都村へ行く道を選びます。
きみは函館にいたアメリカ人宣教師夫妻「ヒュエット夫妻」に託されました。

 

親子の別れは悲しいものだったでしょうが、ひとまず養親も決まり、きみの養育が行われるはずでした。
しかしその後、ヒュエット夫妻に米国への帰国命令が出てしまいます。
では、きみはヒュエット夫妻に連れられて米国に渡ったのかというと、そうできない事情がありました。

 

というのも、6歳になっていたきみは、当時不治の病とされた「結核」に罹っていたのです。
さらに、当時の米国への旅路は船旅で、小さな子供には過酷なものでした。
結核という重病、小さい子供であるということから、きみの米国への船旅は無理だと判断されました。
そのため、きみは今度は東京・麻布の孤児院に預けられることとなり、ヒュエット夫妻はきみを連れて行くことができず夫妻のみで米国へ渡ったのです。

 

なぜ函館にいたきみをわざわざ東京・麻布の孤児院に預けなければならなかったのかについては、明確な資料はありませんでした。しかし、おそらく「函館に結核療養所がなかった」ためではないかと考えられます。(当時は「サナトリウム」などとも呼ばれていました。)

函館市にはじめて市立療養所が設立されたの(函館市柏木町、60床)が大正14年、西暦に治すと1925年ですから、野口雨情が作詞した後となります。


きみはこの後、隔離病棟で闘病しましたが、とうとう病魔に打ち勝つことなく、9歳という年齢で病没してしまったのです。

 

「赤い靴」の歌詞とエピソードの相違点

 

さて、上記の悲しいエピソードですが、「赤い靴」の歌詞とは大きな違いがひとつあります。
それは歌詞一番の後段、「異人さんに連れられて行っちゃった」の部分です。
きみは「異人さん(ヒュエット夫妻)」に預けられましたが、ヒュエット夫妻は函館にいたのです。

ちなみに「赤い靴」の歌詞は1~4番まで歌詞があり、以下のようなものです。

1.    赤い靴はいてた女の子 異人さんにつれられて行っちゃった
2.    横浜の埠頭から汽船に乗って 異人さんにつれられて行っちゃった
3.    今では青い目になっちゃって 異人さんのお国にいるんだろう
4.    赤い靴見るたび考える 異人さんに逢うたび考える

やはりこの歌詞からは、「赤い靴はいてた女の子」は、「異人さんに連れられ」て、「横浜の埠頭(はとば)」から海をわたって、「異人さんのお国」にいる、という前提がありますよね。
これは、母親であるかよが、最後まで「きみ」はヒュエット夫妻に連れられて米国に渡ったものと思いこんでいたためとされています。

 

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母かよ、父鈴木志郎のその後

 

やむなくきみをヒュエット夫妻に預け、留寿都村へ入植したかよ・鈴木志郎のその後はどうだったのでしょうか。
実は、この平民社農場においても、過酷な運命が待ち受けていました。
開拓は困難を極め、かよが故郷から手伝いに呼んだ弟は過労で死亡、さらに、農場も火事に遭うなど、開拓の継続は困難に追い込まれました。
結局、かよ・鈴木志郎は開拓を断念、ふたりの間に新たに生まれた娘とともに、札幌に移り住むこととなりました。これが明治40年のことでした。

 

札幌に移り住んだ鈴木志郎は「北鳴新聞社」に入社、再び記者として活躍しますが、1年後にはふたたび真狩村へ行き、留寿都郵便局で集配人となります。かよは平民社農場跡地にて、農耕に従事しました。

 

その後の足取りは確かではありませんが、大正8年には一家で室蘭に移住したり、大正12年には炭鉱夫として夕張炭鉱で働いたりと、なかなかに激動の人生であったようです。
かよは昭和23年、鈴木志郎は昭和32年に、ともに小樽にて亡くなっています。

 

野口雨情の作詞

 

上記のようなエピソードが伝わっているのは、「赤い靴」の影響が大きいですが、では作詞した野口雨情は、どこでこのエピソードを知ったのでしょうか。
これは、かよ・鈴木志郎とその娘が札幌に移り住んだ際、長屋の隣に住んでいたのが野口雨情の友人であったとされているのです。
この隣人に、長年忘れることのなかった自分の娘についての話を聞かせ、それをもとに野口雨情が「赤い靴」を作詞したとされています。

なお、野口雨情氏の作詞した「赤い靴」は、先に記載したように4番で終わっているのですが、この詩には「幻の5番」があるとも言われています。
1978年に発見された草稿にあった「幻の5番」は、次のような歌詞であったとされています。

生まれた日本が恋しくば 青い海眺めているんだろう 異人さんにたのんで帰って来(こ)

なぜこの5番が公表されることなく削られたのか、野口氏にしか知りえぬ思いがあったのかもしれませんね。

 

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山鼻公園に「赤い靴」の碑が!?

 

 

さて、ここまでは童謡「赤い靴」のエピソードでした。
ここで冒頭の話に戻るのですが、札幌市「山鼻公園」に「赤い靴」碑があります。
これは、留寿都村での開拓に挫折したかよ・鈴木志郎夫妻が移り住んだ長屋というのが、札幌・山鼻地区であったというエピソードに基づいているようです。

 


山鼻公園の一角にひっそりと佇む碑の裏面には、「赤い靴」のエピソードの概略と、「札幌で生まれた童謡『赤い靴』の会」によって設置された旨が書かれています。

 

「赤い靴」碑は他にも

 

「赤い靴」の童謡の知名度は高く、また、この記事で解説したエピソードも1978年にドキュメントとして放送されたことから、大きな注目を集めました。
その後、「赤い靴」の女の子に関わりのある以下の場所に記念の像が設置されています。

  • 静岡県 日本平「母子像」
  • 東京都 麻布十番「きみちゃん像」
  • 北海道 留寿都村「母思像」
  • 北海道 小樽市「赤い靴 親子の像」
  • 北海道 函館市「赤い靴 少女像」
  • 青森県 鰺ヶ沢町「赤い靴 親子像」

 

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山鼻地区の歴史に関するこちらの記事もおすすめです!

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施設情報

 

 

●施設名:「赤い靴」歌碑
●住所 :〒064-0914 北海道札幌市中央区南14条西10丁目2
●地図 :

【歴史部】<札幌市>ただの”橋”じゃなかった!幌平橋のポートランド広場を訪れました!

交通路以上の意味のある橋!幌平橋

こんにちは、えぞまち歴史部です。
札幌市は、ほぼ中央に豊平川が流れており、この豊平川の渡河や治水に関しても、一言では語りきれない歴史があります。

 


現代では豊平川にはいくつも頑丈な橋がかかり、車でも徒歩でも苦労することなく渡ることができますね。
しかし、その橋自体に注目することはあまりないかもしれません。

 


今回えぞまちでは、豊平川にかかる橋のうちのひとつ、「幌平橋」を訪れました。

 

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「幌平橋」はどんな橋?

 

 

「幌平橋」は、地下鉄南北線「中の島」駅と「幌平橋」駅の間にあたる位置を地上で結んでいる橋です。

豊平川で例年開催される「道新・UHB花火大会」では観客が集まる場所のひとつになっていますね。

 

 

幌平橋は徒歩で渡ることもできる橋で、橋の上に設けられたアーチが目を引きます。このアーチは登ることができ、アーチ上からは豊平川とその流域を見渡すことができます。

 

 

 

<過去には「札幌川見」というイベントが実施されたこともありました。

 

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この「幌平橋」の歴史についてみると、最初にこの場所に橋が架けられたのは1927年のことです。

 

 

この碑は幌平橋から少し中の島側の場所にある碑で、碑には「創設者 河合才一郎氏」の名前が書かれています。この河合才一郎氏というのは当時の北海道議会議員で、札幌市と豊平町(当時)との間に全長159m、幅5mの木橋を「私費」(!)で建設した方で、個人が架けた橋としては、当時日本一のものでした。札幌市と豊平町とを結ぶ橋だったので、「幌平橋」と名付けられ、豊平橋よりも上流に架けられた初めての橋となったのです。

この後、1937年には北海道が新たに木橋を架橋、さらに、1954年にはゲルバートラス橋が架橋されました。

「ゲルバートラス橋」というのは、橋の両側の橋脚から空中にカンチレバーアームが突き出し、両側のカンチレバーアームが中央の吊桁を「引っ張る力」で保持するという形の橋です。

ちなみに、ここよりさらに南(上流)に位置する「藻岩橋」も同日に架橋されており、この藻岩橋のたもとには、「馬の渡し場船場跡」や「渡し船場跡」のパネル表示があります。

 

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なお、このとき架けられた幌平橋にはまだ歩道が設置されておらず、歩道を架ける工事は1966年と1970年の2回にわたって行われました。

 

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幌平橋の「ポートランド広場(PORTLAND SQUARE)」

 

 

さて、幌平橋はこれまでお話してきたように、徒歩でも車でも通行できる幅を持つ橋なのですが、徒歩で渡る際に通行するエリアには、「ポートランド広場」という表示があります。

 

 

アメリカ合衆国オレゴン州ポートランド市は、1959年から札幌市と姉妹都市提携がなされているのですが、1994年、姉妹都市提携35周年を記念して、当時のポートランド市長ヴェラ・カッツ氏率いる交流団が札幌市を訪れ、記念事業が催行されました。記念事業の一環としてこの幌平橋の見学も行われたことを契機として、幌平橋の歩行空間は「ポートランド広場」と命名されたのです。

 

 

ポートランド広場には三角錐のパネルが設置されており、ポートランド市の「ローズ・フェスティバル」の説明やポートランド市の特徴などの説明が記載されています。

 

 

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ぴったりのオブジェ「サーモン・リバー」

 

 

ポートランド広場の幌平橋駅側には、目を引くオブジェがあります。このオブジェは「サーモン・リバー」と命名されています。

 

 

これは、制作者であるポートランドの金属彫刻家「リー・ケリー」氏が、自身が子供時代を過ごしたアイダホ州中部の川からイメージしたものとのこと。

サーモンといえば鮭のことを指しますが、豊平川は鮭と切っても切れない関係にあり、まさにこの場所にぴったりのオブジェといえそうですね。

 

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施設情報

 


○施設名:幌平橋(ポートランド広場 PORTLAND SQUARE)
○住所 :北海道札幌市中央区南15条西1丁目
○地図 :

 

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【歴史部】<札幌市>「札幌軟石」がおしゃれな雑貨に!「ぽすとかん」(旧石山郵便局)を訪れました。

エリアごとに特色のある札幌の歴史

こんにちは、えぞまち歴史部です。

札幌の歴史的建造物といえば、観光スポットとして名高い「時計台」や、中島公園にある「豊平館」、大通公園にある「札幌市資料館」などが有名です。

 

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札幌の「中心部」として位置づけられた歴史についていえば、江戸時代に「さつほろ」の名で呼ばれているのは現在の中央区よりも北で、北区茨戸周辺といわれています。
現在の中央区・大通近辺や札幌駅のような中心街が形成されたのは、明治維新後、島義勇による札幌本府の建設からですね。

 

もともと北海道の「中心地」という位置づけのはじまりは札幌ではなく、貿易港としてすでに開発されていた箱館がその役割を担うものと考えられていたのですが、島義勇の「五州第一の都(世界一の都市)」を建設するという構想から、現在の札幌の基礎となる碁盤の目状の市街地が形成されていったわけです。

 

また、明治以降「屯田兵」の制度が開始され、北海道の開拓と守備という役割が重要視された頃には、西区琴似地区がその先駆けとなりました。

 

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このように、ひとくちに「札幌の歴史」といっても、エリアごとにそれぞれ異なった経緯で発展し、街が形成されてきたことがわかります。

 

さて、今回注目したのは、札幌市南区エリアの歴史と「札幌軟石」という石材についてです。

 

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歴史的建造物にたびたび登場する「札幌軟石」とは?

 

札幌近辺の歴史的建造物を訪れたことがある方にとっては、「札幌軟石」という用語は馴染み深いものであるかもしれません。

たとえば先にも紹介した「札幌市資料館(旧札幌控訴院)」や、北海道大学農学部のサイロ、小樽運河の倉庫などにも札幌軟石が使用されています。

 

現代の建造物では、住宅をはじめほとんどの建物はコンクリートを使用して建造されますが、一定の品質のコンクリートブロックが工業的に生産され、かつ輸送体制なども整い本格的に活用されたのは昭和30年代以降といわれており、それまでは「石材」は建造物をつくる際に欠かすことのできない資材であったのです。

 

こうしたことから、札幌軟石は札幌周辺の地区にとって重要な資材であり、採石場は資源の採取拠点であったことがわかります。

 

もちろん、採取した石材を加工場へ、あるいは加工した石材を利用する地点まで輸送するような交通網も整えられていきました。(これが「定山渓鉄道線」※現:「じょうてつ」のかつての鉄道路線※ の重要な役割のひとつでした。)

札幌軟石が活用されるようになった背景とは?

 

札幌軟石は、そもそもどこからきた石なのでしょうか?その由来は約4.4万年前まで遡る、「支笏大噴火」であるとされています。

 

支笏湖の美しさも火山からできているのですね。

「支笏」といえば支笏湖ですが、支笏湖はこの支笏大噴火の際に形成されたカルデラ湖で、このときに噴出した軽石・火砕流が冷えて固まったもの(溶結凝灰岩)が「札幌軟石」と呼ばれる石です。

 

この札幌軟石を発見したのが、明治時代に来日したアメリカ人の土木技術者「A・G・ワーフィールド」と、鉱山技師の「トーマス・アンチセル」でした。

 

札幌軟石のもつ「切り出しの容易さ」や「保温性の高さ」から、建造物をつくる際の資材として大々的に活用されるようになったというわけです。

 

現在の「札幌軟石」の利用

 

もちろん、先に述べたように現代では建物をつくる際にはコンクリートを用いるのが一般的です。

 

ただし、札幌軟石の採石は途絶えたわけではなく、現在でも採石・加工が行われています。

 

愛好者は建造物に利用したり、墓石としての利用もあります。
また、端材が雑貨・インテリアとして活用される例もあり、今回訪れた「ぽすとかん」ではそうした雑貨の一部に出会うことができます。

 

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札幌軟石で作られた旧郵便局「ぽすとかん」

 

 

さて、今回えぞまちで訪れたのは、南区石山にある「ぽすとかん」という建物です。
この建物はもともと、石山郵便局として利用された建物で、札幌軟石が使われています。

 

「石山郵便局」の前身となる「穴の沢郵便局」が開設されたのは明治35年(1902年)のことで、「石山郵便局」という名前に改名されたのは明治41年(1908年)のことでした。


札幌軟石が使われた、現在に残る形の建物は、昭和15年(1940年)に改築されたものです。
天井のアーチ部分は、当時かなり注目を集めたよう。オシャレですね。

 

その後も郵便局として活躍を続けた建物でしたが、昭和49年(1974年)には、この建物は郵便局としての役割を終えることになりました。

 

平成17年(2005年)には、札幌景観資産第5号に指定されたものの、建物は個人所有のものであり、維持管理にも苦労されていたところ、有志による「ぽすとかん再生プロジェクト」が始動し、クラウドファンディングなどを経て、現在の「ぽすとかん」が残っているのです。

「ぽすとかん」には何がある?

「ぽすとかん」内部に入ると、1F部分には「軟石や」と「ニシクルカフェ」があります。

 

 

右手にはニシクルカフェ、少し奥まっている雰囲気が素敵ですね。
「ニシクル」というのは、アイヌ語で「雲」という意味だそう。
コーヒーのほか、自家製酵母のベーグル、「ニシクルカレー」などのメニューが楽しめます。

 

 

そして、左手にあるのが「軟石や」です。
ここでは、札幌軟石を使った雑貨品が販売されています。

この軟石雑貨ですが、アロマを垂らすことで「アロマストーン」としても使えるとのこと。
建物もバリエーションがあり、まったく同じものではないというのがオリジナル感があって良いですね。

 

 

今回えぞまちでは、こちらの「教会」型の軟石を購入させていただきました。

 

 

こちらはネクタイピンなどの装飾品です。軟石とアクセサリーという組み合わせ、とてもオシャレです。

 

 

ふと手に取ったこちらは、一見すると、採石場で石を切り出しているイラストが描かれているポストカード。イラストももちろん素敵なのですが…!

 

 

裏面に、「イラストが動きます!」との説明が。お店の方に方法を教えていただき、自宅で実践してみると…

 

イラストを読み込むと動きました!

 

このように動きました!InstagramのARエフェクトを利用した機能で、表面のイラストをトリガーとして、ARエフェクトを起動させているわけですね。す、すごい…!

 

 

2Fへの階段の途中には、「札幌市都市景観賞」の表示と、

 

 

壁には一面の札幌軟石!こちらも壮観です。

 

 

2Fには腰掛けられるスペースがあり、イベントスペースも併設されていました。
広さの限られている建物ですが、空いているときはゆったりできそうな雰囲気です。

なお、「ぽすとかん」を訪れた際の動画をYoutubeにて公開しております。

 

<ライラックマも喋ります!

 

「ぽすとかん」の向かいには、「旧定山渓鉄道 石切山駅」

 

 

ぽすとかんを出て、平岸通を挟んで向かいには、「石山振興会館」があります。この建物は、かつての定山渓鉄道駅で、「旧石切山駅」との表示があります。

当時の鉄道は白石駅からおおまかに豊平-澄川-真駒内-石切山-簾舞-小金湯-定山渓というルートを1時間30分で運行していました。

定山渓温泉との間の温泉客輸送のほかにも、先に解説したように鉱石・石材・木材の輸送が重要な役割でした。

1957年ごろには、定山渓鉄道は東京急行電鉄(東急)の傘下に入り、”札幌都市圏の私鉄統合”、”定山渓鉄道線・夕張鉄道線の延伸”、”札幌と江別の間に「札幌急行鉄道」の新設”などの構想があったようですが、創業者、五島慶太氏の逝去によって実現しなかったようです。

現在では、小金湯・定山渓エリアを除けば地下鉄南北線と東西線が各エリアを繋いでいるという状態ですね。

 

 

とはいえ、戦後のいっときは温泉利用とビール券・枝豆・とうきびがセットになった「月見電車」なる豪勢なセットプランもあったようですから、当時の人々は定山渓鉄道を使って定山渓温泉に入るというのは大きな楽しみだったのでしょうね。

 

 

なお、旧石切山駅の並び、石山交番の隣には、平成11年(1995年)に設置された、札幌軟石製の「石切山街道碑」があります。

 

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おわりに

 

 

今回は、「札幌軟石」、「定山渓鉄道」、という大きなテーマから、「ぽすとかん」と「旧石切山駅」という建物を訪れてみました。

 

定山渓というと、現代では温泉が真っ先に思い浮かぶのですが、札幌の歴史において札幌軟石や定山渓鉄道が果たした役割は非常に大きなものだったと感じさせられました。

 

そうした歴史の背景を知る意味でも、また、単に「札幌軟石を使ったアクセサリーやインテリアを楽しむ」という意味でも、「ぽすとかん」は大変魅力的なスポットですので、ぜひ訪れてみてくださいね。

 

施設情報

 

○施設名:ぽすとかん(旧石山郵便局)
○住所 :〒005-0842 北海道札幌市南区石山2条3丁目1−26
○URL  :https://www.postokan.com/
○地図 :

 

○施設名:石山振興会館(旧石切山駅)
○住所 :〒005-0841 北海道札幌市南区石山1条3丁目1−30
○地図 :

 

○施設名:石切山街道碑
○住所 :〒005-0841 北海道札幌市南区石山1条3丁目1
○URL  :https://www.city.sapporo.jp/minami/ishibumi/chiku0701.html
○地図 :

 

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